人には、気の弱い人、
超・気の弱い人
が、おりますので、簡単に、コメントするのは、ひじょうに、心が引けますが、
こういう方々、
親も子供の時代から、わかっているはずです。
そういうお子様を持っている
小学生、中学生、高校生、大学生、
若い新人サラリーマンなどの、
ご両親は、
どんな小さいことでも、
犯罪や
犯罪に近い、
いじめ、
脅し、
不法な威張り
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などなどの時は、すぐに、その帰り道で、警察に届けなさい!
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と、何十回も、教え込むべきです。
統一教会しかり、
どうして、
不思議?
変?
犯罪?
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って、思わないこと自体が、
私にとっては、’奇妙?”
に、感じますが、
「そういう気の弱いお子様を持つご両親は、子供の年齢にかかわらず、
―――――教え込むことです」
反日集団・統一教会や、
半島の人間などや、
日本の”闇”の世界の連中や、それらにあこがれる連中、
不良グループ、暴走族、チンピラなど
バカな体育会系と、それらを許している学校の校長と教頭と、幹部
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これらの連中には、
こういうことをしますので
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警察に駆け込むことが、”一番重要です”
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50対2の喧嘩で…」「盗んだ車に乗っていたらヤクザに煽られて…」少年院出身の元東洋チャンプが経験した“ヤバすぎる修羅場”
「未練も寂しさも、一切ありません。誰よりも、ボクシングの厳しさを分かっているつもりですし、中途半端な気持ちでできるものではありませんから」
きっぱりとこう言い切るのは、今年4月に現役引退を表明した元・東洋太平洋スーパーバンタム級王者の勅使河原弘晶(てしがわらひろあき・32歳)。昨年12月、IBF世界スーパーバンタム級挑戦者決定戦で、マーロン・タパレス(フィリピン)と戦い、2回KOで敗れ、この試合が現役最後の試合になった。 21歳でプロデビュー。27戦22勝(15KO)3敗2分の成績を残し、彼はリングを去った。勅使河原のキャリアを振り返ると、「原点」と言える一冊の本がある。少年院時代に手にした、輪島功一の自伝『炎のチャンピオン』だ。この自伝に感銘を受け、勅使河原は輪島功一スポーツジムの門を叩き、ボクシングの世界に入ることになる。 しかし、そもそも一体彼はなぜ少年院にいたのだろうか。彼がまだ何者でもなかった、群馬時代の壮絶なエピソードを語ってもらった。 取材・文/今川芳郎
「暴走族のオキテ」に忠実だった
――群馬県出身の勅使河原さんは、もともと地元の暴走族に入っていたそうですが、どんな少年だったのですか? 勅使河原 僕が幼い頃に両親が離婚し、父と暮らしていたのですが、その後父は再婚しました。小学校低学年の頃です。一緒に暮らすことになった継母に、僕は酷い虐待を受けてました。5年生に上がったころ、ようやく父が虐待に気付き、離婚しました。 その反動でしょうか。父と二人きりになったら、だいぶ荒れまして、中学生の頃には暴走族に入ってました。でも、周りの人より強かったなんてことは全くありません。当時の僕は、ガリガリの“もやし”でしたから。それに、喧嘩ばっかりしていたわけでもないんです。 腕に自信があったわけではありませんが、当時から気持ちには自信がありました。暴走族って、上下関係がしっかりした集団で、いくつも守らなきゃならないルールがあるんです。その中に、「どんな場面でも引いちゃいけない」というものがありました。 たとえ、敵対勢力のボスが出てこようが、ヤクザが来ようが、どんなヤツが相手でも、決して引いてはいけないし、謝ってはいけない。もし引いてしまったら、先輩方から「ケジメ」を受ける。まあ、リンチです。これがルールでした。 僕は真面目で、言われたことはやらなきゃと思うタイプなのでなので、どんなに怖くてもハッタリで向かっていってました。勢いだけはあるタイプで、周りから「あいつはヤバい」と一目置かれていたおかげで、喧嘩を売られることはまずなかった。僕としては、決まりごとを真面目に守っていただけなんですけどね(笑
50対2でボコボコ
――インタビューをしていると、勅使河原さんは受け答えも非常に丁寧で大変礼儀正しい印象を受けます。昔暴走族に入って荒れていたとは到底思えないのですが……。 勅使河原 むしろ暴走族に入っていたから、そうなったんじゃないでしょうか。文字通り、礼儀を先輩に叩き込まれましたから(笑)。 礼儀もそうですが、暴走族にいたことが、ボクシングに生きた部分もたくさんあります。「どんなに恐ろしい局面でも向かっていかなきゃいけない」というあの教えも、めちゃくちゃボクシングに生きました。 中2~3の頃にはこんなことがありました。うちの総長と2人でいる時に、50人の敵に囲まれ、ボコボコにされたことがあったんです。地元の夏祭りに行った時に、総長と歩いてたんですよ。そしたら、気付かぬうちに、別の暴走族の輪の中に入っていた(笑)。祭りの時、暴走族は特攻服を着て集まって、声出しみたいなことをやるんですね。それで、50人ぐらい集まって声出ししてるところに、何も知らない僕らが、のこのこ入っていっちゃった。 当然、「お前ら、うちの陣地でなにやってんだ」ってことになった。でも、僕らは、たった2人でも引いちゃいけませんから。こっちも、「何だ、やんのか?」とか言ってね。僕は、目の前のヤツの胸ぐら掴んだぐらいで、ほとんど何もできませんでした。掴んだヤツに膝蹴りされてしまい、周りからもめちゃくちゃに殴られ続けた。奇跡的に、僕は大事に至るような深手を負いませんでしたが、一緒にいた総長は気の毒でした。 しばらくすると、その暴走族のケツ持ちのヤクザが来てしまってね。総長だけをタコ殴りですよ。僕はただ見てることしかできませんでしたけど、あれは酷い光景でした。 そんな経験もしましたので、ボクシングで、どんなアクシデントがあっても、「大丈夫、いける」と思えた。試合をしていると、絶対絶命の局面って結構あるんです。そんな時にも、弱気にならないで向かっていけたのは、間違いなく暴走族時代のおかげです。どんなに辛くても、「最悪、反則してでも勝ってやる」ぐらいに思ってましたから
ビニール傘でフロントガラスを割られる
――暴走族時代、最も恐ろしかった出来事は何でしょう? 勅使河原 う~ん、そうですね。もう時効だと思うので話しますけど、中3の時、仲間たちと窃盗した車に乗っていたことがあるんですよ。僕は助手席に座っていて、ハンドルに指紋がつかないよう手袋をした友人が運転していました。後部座席にも友人が2人乗っていて、合計4人。 それで、走ってたら、めちゃくちゃ煽ってくる車がいて。クラクションを鳴らしながら、蛇行したりするんです。僕たちもイキってたので、それに対抗して、ブレーキ踏んだりしたわけですよ。そしたら、そいつが突如僕らの車を追い抜き、陸橋のど真ん中で、幅寄せして停車した。仕方なく、こっちも停まると、出てきた運転手が完全にヤクザでした。 「まいったな」と思ってたら、そいつは静かにトランクからビニール傘を取り出して、僕らが乗っていた車に近づいてきた。そして、その傘の先端でフロントガラスを思い切り叩いて、フロントガラスは割れました。そのまま、運転席側に回り「窓を開けろ!」と一喝。ビビった友人が窓を開けた瞬間、傘で思い切り目を突かれ、プシューって血が噴き出た。ヤバい勢いで血が出てるのに、そいつは傘で友人を殴り続けるんです。僕は、その光景にビビっちゃった。「このまま殺されるんだろうな」と思い、全身が震えました。 でも、僕だけ何もされませんでした。なぜかというと、運転要員として一人生かしておきたかったから。「お前、運転できるよな?」と聞かれた時、「はい、できます」と即答しました。後ろの2人もやられて、僕以外の3人は、ヤクザの車に拉致られました。それで、「そのまま運転して後ろから付いてこい」ということだったのですが、血だらけの車を一人で運転してたら、恐ろしくなってきてね。 拉致された3人には申し訳ないですけど、途中でしれっと別の道にハンドルを切り、一人で逃げました(笑)。後日、聞いた話によると、3人を乗せた車がヤクザの事務所に着いた瞬間、3人は隙を付いて、死に物狂いで逃走したそうです。事務所に連行されてたら、殺されていたでしょうから、賢明な判断だったと思います
二度目の少年院で変わった人生
――想像を絶するような絶対絶命の修羅場をくぐっていたのですね。そもそも、少年院には何の罪で入ったのでしょうか? 勅使河原 僕は2回、少年院にお世話になりました。一度目は、度重なる暴走行為や窃盗です。 二度目は傷害です。「暴走族は一人じゃ何もできない、ダサい」と吹聴している半グレみたいな奴がいるという話を聞きまして。その男を拉致して1週間ぐらい監禁して、半殺しにしようと計画を立てたのです。そいつの居場所を探し出し、金属バットでボコボコにしたのですが、「さあ、車に乗せて拉致しよう」という時に、たまたま警察が通りかかった。 僕らは一目散に逃走し、その日は逃げ切りました。それで懲りればいいものを、その後も、「失神させれば拉致できるだろう」と、スタンガンを持参して、再び襲撃してしまいまして…。その後、捕まりました。 ――その2度目の少年院時代に、輪島功一さんの自伝『炎のチャンピオン』と出会うわけですね? 勅使河原 はい。僕が変われたのは、本当にボクシングのおかげ。運動神経も全然良くなかったけど、『炎のチャンピオン』を読んで、「絶対に世界チャンピオンになる」と心に誓った。その気持ちだけで、変われました。僕に何か才能があるとすれば、「自分を信じる気持ちが強いこと」。これだけなんです。それを教えてくれたボクシングには、本当に感謝してます。 ――ボクシングを始めるにあたって、すんなり暴走族を抜けることができましたか? 勅使河原 少年院に入る前まで「ヤクザになる」って言ってたのに、出てきたら「世界チャンピオンになる」と言って、勝手に東京に出てきちゃった。やっぱり僕の意思が固すぎたんでしょうね。人間って、その人の覚悟を感じたら、それ以上入っていけないんだと思います。 デビュー戦だけ、僕のケツ持ちだったヤクザの人が観に来ていたそうです。僕には、全く知らせずに。その後、一度だけ話す機会があったのですが、デビュー戦で、僕の覚悟を感じてくれたようで、「ヤクザが行ったら悪いだろ?」と言われました。それ以降は、一切の関係がなくなりました。悪かった時の仲間も、ボクシングのために全て縁を切りました
いまは少年院での講演も
――今年の1月14日、久里浜少年院(横須賀市)の成人式で、在院している新成人に向けてスピーチされたそうですが、今後もそういった活動は続ける予定ですか? 勅使河原 もちろん、依頼があればやりたいと思ってます。でも、本当は世界チャンピオンになって、彼らに「夢を実現するために努力すれば、道は開ける」と伝えたかった。やっぱり、世界チャンピオンとアジアのチャンピオンでは、説得力が全然違いますから。 僕は、世界チャンピオンになるためだけに、ボクシングに打ち込んでましたから、東洋チャンピオンはチャンピオンじゃないと思ってるんです。周りが「よくやった」と言ってくれるのは、ありがたいことですが、現役を終えてみて、何かを成し遂げたという気持ちもないですし。 そのため、講演を依頼されても、いまいち自信を持ち切れない自分がいる。でも、悔いなくやりきったんだから、これからは、もう少し自信を持ってもいいのかな。 次回『建設現場で働く、少年院出身の元東洋チャンプの現在…「ファイトマネーだけの現役時代に比べれば生活も安定し、肉体的にも全然ラクです」』では勅使河原のボクシング引退後の日々について話を聞いた。
今川 芳郎