ソ連にだまされ送られた「悪魔の棲む町」…シベリア抑留男性、ウクライナ侵略は「いつものやり方」

 

読売新聞

 

 

ロシアによる侵略が続くウクライナでは、市民が殺され、逃げ惑い、祖国を追われている。「ロシアのいつものやり方だ。断じて許せない」。77年前、シベリア抑留を生き延びた仙台市太白区の庄子英吾さん(95)は、自身の記憶とウクライナを重ね、ロシアの暴挙に憤る。(後藤陵平)

 福祉施設の一室で生活し、ごつごつとした右手の中指1本でキーボードに触れて文字を打ち込む。声はかすれ、会話は難しいが、戦争体験を文章に残してきた。

 仙台市出身。1944年冬、18歳で満州(現中国東北部)の陸軍軍官学校へ入った。翌年の8月9日、ソ連が中立条約を破って侵攻を始めると、前線に召集された。消耗した日本軍には肉弾戦しかない。爆弾を背負って戦車に体当たりする自爆訓練を続けた。8月15日にラジオで玉音放送が流れると、涙があふれた。

 「トウキョウ、ダモイ(東京に帰る)」。1か月後、ソ連兵に告げられ、列車に乗り込んだ。しかし目が覚めると、故郷に向かうはずの列車は、朝日を背に西へ走っていた。「ソ連にだまされた」。着いた先は、炭鉱の町「ブカチャーチャ」。ロシア語で「悪魔の棲(す)むところ」という意味だと聞かされた。

 零下40度を下回る極寒の地で、森林の伐採や石炭の運搬などの強制労働が始まった。手袋をしていても凍傷になる。食事は限られ、硬い「黒パン」と雑穀のスープを分け合った。

 飢え、寒さ、そして伝染病が大勢の命を奪った。発疹チフスで多い日は20人近くが死亡した。自身も感染して高熱で1週間以上、気を失った。「船が来たぞ! 国に帰るんだ!」と絶叫しながら凍死した人もいた。

 意識が戻り、課せられたのは死んだ仲間の「処理」だ。凍った遺体6、7人分をまとめて縄で縛り、台車に乗せて墓地へ運ぶ。凍った土は硬い。穴を掘ることを諦め、雪をかぶせた。死を悼む気持ちはない。あるのは、「明日は我が身」という恐怖だけだった。入校時375人いた同期は、抑留中に83人が犠牲になったという。

 3年間の抑留生活を終えて帰国。結婚して2人の子宝に恵まれた。だが、シベリアでの記憶は家族にも明かさなかった。

 母校の仙台高校に招かれて体験を語ったのは10年前だ。ともに生還した仲間も大半が鬼籍に入り、「今語り伝えなければ、永久に消えてしまう」と焦りを覚えた。100ページに及ぶ体験記を執筆、製本して母校や知人に配った。

 終戦から77年を迎える夏。ロシアによるウクライナ侵略が続く一方で、日に日に国内の報道は減ってきた。日本人が「対岸の火事だと思っているのか」と憂慮し、あの苦しい体験を死ぬまで記録し続けることにした。「二度と戦争を起こさぬ様にする為」。ゆっくりと入力した15文字に、反戦の決意を込めた。

 庄子さんは、子ども向けに内容を要約した冊子を作り、希望者に無料で送付している。問い合わせは、庄子さんが入居する施設「時のかけはし」(022・226・7221)まで。

 ◆シベリア抑留=第2次世界大戦後、ソ連全域とモンゴルの収容所に、日本兵ら計57万5000人が移送された強制抑留の総称。厚生労働省によると、5万5000人が死亡したとされる

 

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