中央アジアとアフガニスタンが「中国の墓場」になる日
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アレキサンダー大王から米軍まで、迎えては送り出してきた世界的要衝へ向かう習政権の命運は
「モンゴル」が名の由来であるムガール帝国の王子を描いた絵 HULTON ARCHIVE/GETTY IMAGES
2019年夏のある日、私はウズベキスタン共和国西部のカルシ市から南へ向かっていた。
「米空軍はここから飛び立っていった」と、現地案内人の知識人は語る。
羊の群れが悠然と草を食は むのどかな草原だが、川の向こうのアフガニスタンを眺め、改めてその戦略的重要性を認識した。
その要衝に、中国が早速触手を伸ばし始めている。
一帯一路構想の拡充を目指す上で是が非でも押さえたい地域であり、その重要性は歴史的変遷が証明している。
アフガンが世界中から注目されているのは、地政学的に中央アジアの一部を成しているからだ。
同国の重要性はユーラシアが世界史の舞台となって以来、変わらない。
カルシとは、テュルク・モンゴル語で「天幕式宮殿」の意。
14世紀にチンギス・ハンの一族が遠征中にこの付近に移動式天幕宮殿を張っていたことに由来する。
チンギス・ハンはモンゴル高原を統一するとすぐに中央アジア遠征に着手し、
パミール高原以北のアム川とシル川流域に7年間も滞在した。
彼の創建した世界帝国は、中央アジアを中心に東西南北へと延伸していた。カルシ市の北東に自他共にモンゴル帝国の後継者と認めるティムールの生まれ故郷がある。
彼は何回もパミールを越えてアフガンとインド方面を抑え、帝国の南方を安定的に経略した。
16世紀になると、ティムール朝の王子バーブルは別のチンギス・ハンの子孫に追われてインドへ逃れ、かの地でムガール朝を創設。
ムガールとは、
「モンゴル」のペルシア語風の転訛(てんか)かだ。
ムガール帝国最後の皇帝が大英帝国の軍人に処刑されるまで
インドとアフガンは一体化していたし、創設者のバーブルもアフガンと中央アジアこそ故郷と見なしていた。
言い換えれば、アフガンも中央アジアもインドと連動していたし、
研究者の中にはインドを中央ユーラシアに含める人もいる。
当のインドだけでなく、新しい支配者としてデリーに君臨したイギリスまでアフガンを征服して帝政ロシアの南下を阻止しようとしたが、いずれも不名誉な敗退として歴史に記録された。
中国も古代から中央アジアに触手を伸ばそうとしてきた。
前漢の外交家・張騫(ちょうけん)が西を目指していた途中に中央アジアで蜀の国、つまり四川の物産を発見した。 それらは古代の中国人が言うように西域を通って西へ運ばれたのではなく、雲南経由でインドに入ってから北上しアフガンを通過していた。
中国に併合される前の雲南はインド・中央アジアとつながる国際通商路として繁栄していた
一帯一路に狂喜乱舞する理由
張騫を派遣した漢王朝には中央アジアと交易する意図はなく、ライバルの匈奴(きょうど)対策にすぎなかった。匈奴は中央アジアを自身の右腕と認識していたので張騫の諜報活動も「右腕を断つ」作戦の一環だった。 今日、多くの研究者たちがいわゆるシルクロード交易を経済学的に再計算した結果、どの時代もインド・アフガンと中央アジアからヨーロッパに通ずる貿易額が大きく、中国から中央アジアへの搬出量は限られていたことが判明した。事実、歴世の中国王朝は人と物が万里の長城の最西部・嘉峪関(かよくかん)から西へ出るのを固く禁じていて、長城の目的は匈奴とその子孫の南下防衛よりも中国人の密出国を防ぐことだった。 「一帯一路」構想に中国人が狂喜乱舞するのも分かる。史上初めてカネに物を言わせて現地人を動かしているのだから。 アレキサンダー大王からロシアのツァーリ、大英帝国軍からソ連軍、そして米軍まで迎えては送り出したアフガンと中央アジア。その住民は東方からの新しい珍客、中国の振る舞いを静かに観察しているはずだ。
楊海英(本誌コラムニスト