世界が、アメリカが認める、世界一になった日本人は、

 

数が少ないですが、

 

野球でいうなら、”イチロ―”

 

(暫定的に、今年だけなら、”大谷翔平”)

 

クラシカル音楽では、ヴァイオリンの、”MIDORI"  (五嶋みどりさん)

 

ポップスでは、だれ一人おりませんが、

 

映画の、トーキーの時代には、”早川雪舟”さん、という、大・巨人、大大・スーパースターが、

 

おられました。

 

パリのファッション界では、”KENZO" さん、

 

世界の彫刻界では、”イサム・ノグチ” さん。

 

美術界では、まあマ、トップのグループに属しておりましたのは、”藤田嗣治”先生。

 

 

まあ、悲しいかな、そんなところでしょうか!

 

しかし、世界一、いや、世界一(くらい)のグループにランクされていたわけでもありませんが、

 

当時、カントリー&ウェスターンをやっておりましたら、

 

”グランド・オール・オープリ”に、日本人が、アジア人が、

 

出演できるなんて、夢のまた夢。間違っても、、ありませんでした。

 

しかし、

 

Yoshio Ohnoさんは、!

 

 

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Wiki

 

グランド・オール・オプリ』 (Grand Ole Opry) は、アメリカ合衆国テネシー州ナッシュヴィルのラジオ局WSMの毎週土曜夜のカントリー・ミュージックの公開ライブ放送のラジオ番組であり、グレート・アメリカン・カントリー(GAC)ネットワークでTV放送化された番組。1925年11月28日からWSMで放送開始され、現在でも続いているアメリカ最古の番組である[1][2]

カントリー・ミュージック、およびその歴史を存続させるため、オープリーではカントリー、ブルーグラスフォークソングゴスペルの巨匠や現代のヒットチャートに入っている者を取り混ぜ、コメディ寸劇などのパフォーマンスも行なう[3]。アメリカのアイコンと考えられており、世界中から何十万もの観客が集まり、何百万もの人々がラジオやインターネットで聴いている。オープリーは「カントリー・ミュージックを有名にした番組」とされ[4]、「アメリカン・ミュージックの本拠地」または「カントリーの最も有名な舞台」と呼ばれる[3]

グランド・オール・オープリーはRyman Hospitality Propertiesによって所有される。

1930年代、番組はプロを雇い、これまで1時間番組だったのが4時間となり、WSMは当時5万ワットで土曜の夜に30州近くに放送していた[5]。1939年、NBCラジオにより全米放送開始。1943年、ライマン公会堂を常設活動拠点とした。これらの発展により、ナッシュビルはアメリカの「カントリー・ミュージックの首都」となった。

オープリーのメンバとなることは、カントリー・ミュージック界において最高の功績の1つとされる[6]ハンク・ウィリアムズパッツィ・クラインロイ・エイカフカーター・ファミリービル・モンローアーネスト・タブキティ・ウェルズミニー・パールなどの巨匠がオープリーの舞台にレギュラー出演した(ただしウィリアムズはたびたび酒に酔っ払って出演したために1952年に出演禁止となった)。近年はドリー・パートンガース・ブルックスリーバ・マッキンタイアジョシュ・ターナーキャリー・アンダーウッドブラッド・ペイズリーラスカル・フラッツダークス・ベントリーケリー・ピックラーディキシー・チックスなどのコンテンポラリー・カントリーのスターも出演している。1974年から、ナッシュビルのダウンタウンより東側のグランド・オール・オープリー・ハウスから放送され、ラジオ番組に加え時々テレビ放送もされる。

 

歴史

『グランド・オール・オプリ』は、ナッシュヴィルのダウンタウンの、National Life & Accident Insurance Companyという保険会社に新しく作られた第5スタジオでスタートした。[7] 最初のショウの演奏者は当時77歳のフィドル演奏者、アンクル・ジミー・トンプソンだった。アナウンサーは番組のディレクターでもあったジョージ・D・ヘイ、別名「The Solemn Old Judge(ソロモンの老判事)」。彼はこの時30歳でしかも判事ではなかったが、シカゴの通信販売会社シアーズ・ローバックが所有するラジオ局WLS [8] で1924年4月に開始されたフィドルとスクエアダンスの番組、「National Barn Dance(全米バーン・ダンス)」ですでに人気を博しており、この分野のパイオニアだった。

初期にレギュラー出演していたバンドには、ポッサム・ハンターズ、フルート・ジャー・ドリンカーズ、クルーク・ブラザース&グリー・ジャンパーズなどがいた。彼らは順番に演奏したが、しかしヘイ判事はフルート・ジャー・ドリンカーズがお気に入りで、いつも毎回番組の最後を締める「red hot fiddle playing」のコーナーにもう一度登場させた。ヘイ判事は、開始当初から出演者を田舎風の愛称で呼び、女性にはあごひものついた帽子にエプロン、男性にはオーバーオールにチェック柄のシャツを着せて、農場にいるかのような演出をつけた。

1926年、数曲のレコードを出してボードビルショーを巡回していたテネシー州のバンジョー奏者、アンクル・デイヴ・メイコンは、番組で最初のスターとなった。番組名はもともと「バーン・ダンス(Barn Dance)」だったが、正式にグランド・オール・オプリに決まったのは1927年の12月だった。当時この番組は、全国ネットのNBCの、クラシック音楽やオペラなどの教養音楽を流す番組の直後に放送されていた。番組のオープニングで、蒸気機関車の音の後に「ハーモニカの天才」デフォード・ベイリーが彼のクラシック・トレイン・ソング、「パン・アメリカン・ブルース(The Pan American Blues)」を演奏すると、ヘイ判事が南部訛りでコメントする。「グランド・オペラはいかがだったでしょうか。ここから数時間はグランド・オール・オプリをお楽しみ下さい」[9]。これ以来、その名前は番組名として今日も使用されている。

公開番組の聴衆は増えて、会場を数度変更し、1943年にはライマン劇場へ移動した。1954年10月2日、まだ10代のエルヴィス・プレスリーがショーに最初で唯一の出演を果たした。「ケンタッキーの青い月」を、その曲の作曲者で当時レギュラー出演者だったビル・モンローの前で演奏した。モンローはそのアレンジに怒り出すとプレスリーは思ったが、逆に感心された。司会者のジム・デニーは、プレスリーに「メンフィスに戻ってトラックの運転手をやり直した方がいい」と言ったといわれている。

1960年代[編集]

1960年代、ヒッピー反体制文化の広がりにより、オープリーは長髪を受け入れない保守的で道徳的な立場を保持していた。カントリーロック先駆者のグラム・パーソンズが当時メンバーであったバーズアルバムロデオの恋人』のためにナッシュビルにやってきた[10]。このバンドのレコードレーベルコロムビア・レコードは1968年3月15日にライマン公会堂で演奏できるようアレンジし、パーソンズはこれを楽しみにしていた[10]。しかしながら観客の声援に応え舞台に登場しようとした途端に出演を止められ、客席からはヤジ、ブーイング、「歌え、歌え」とのコールが起こった[11]トムポール・グレイサーに曲紹介されたマール・ハガードの『Life in Prison 』のカバーを歌う予定であったが、怒った彼らは代わりに『Hickory Wind 』を歌った

 

 

Columbus Stockade Blues / Yoshio Ohno

前編は1960年、テネシー州NashvilleのGrand Ole Opryに出場するまで、後編は1984年再び同じ舞台に立った時の画像です。どちらも同じ曲を演奏していますが前半は大野義夫のバンジョー、後半は故・原田実のスチールギターなど、時代の流れと共に歌い方も変化しているところをお楽しみください。
 
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説明1931年 東京都杉並区生まれ。 法政大学時代、ウエスタン・ジョリーボーイズ(日本で初の学生カントリーバンド)を結成、ヨーデルとバンジョーを得意として米軍キャンプ等でも活躍。1957年3月に堀 威夫とスイングウエスト結成時にメンバーに加わり、折からのロカビリーブームに乗り1958年の日劇ウエスタンカーニバルに第一回より連続出演する。 1959年、オーストラリア~ハワイ~アメリカへと一年間、歌と5弦バンジョーの武者修行に出発。1960年5月7日(土)に世界最大のカントリー&ウエスタンの登竜門「グランド・オール・オープリー」に東洋人として初めて出演。帰国後、コンサート、テレビ、ラジオに数多く出演、現在に至るまでアメリカ音楽一筋66年間、健康、体力維持につとめ現在でもライブ演奏活動を続けています。このチャンネルでは歌手生活初期から現在までを歌と画像で紹介しています。
 
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大野さんの後には、
 
日本では、学生フォークの社会では、
 
今の、森山良子ちゃんの、マネージャーでスタートし、その音楽事務所の経営者。
 
当時の、”Students' Festival" の主催者、
 
金子洋明さんの「十八番」で、とってもお上手でした。
 
プロとしてのレヴェルでした。うまかったです。