私が、数か月前に、言ったとおりでしょ!

 

 

脇役たちが、

 

「目立とう、目立とう、足跡を残そう、残そう!」

 

 

まあ、そうさせている一番の責任は、監督ですが、

 

もし、現場で、脇役たちが、そうしても、

 

編集で、いくらでも、、

 

主役が目立つように、できるはずですが、------!!!

 

そのように、編集していないところを見ますと、完全に、監督の責任です。

 

せっかく、、「まあまあ、良い台本・脚本」でも、

 

監督、演出家、ディレクターが、「ダメだと」

 

もっと、もっと、良い映画・ドラマにできるものを、

 

台無しにしております。

 

「悲しいです!!」

 

 

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本木雅弘は、大好きですし、

 

 

日本では、珍しく、センスもよい男優ですが、

 

道三役には、100%、

 

ミスキャストです。

 

 

実際の道三の、都市は、知りませんが、

 

もっと、年寄よりで、

 

渋くて、

 

顔が少し大柄で、

 

顔のしわもたくさんあり、

 

白髪で、

 

 

声も大きい、

 

 

大胆なタイプが、当てはまりますが、

 

 

「このキャストも、惜しいです!」

 

 

ま、それのみでなく、信長の、染谷将太も、まるっきり会いませんし、

 

彼の演技も、素人並みですし、イメージは、やはり、

 

60年前の、織田信長役の高橋幸治を超える俳優はありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キャスティングも、演技も最高です。

 

主役の、長谷川博己も、

 

光秀役には、全然、あっておりません。

 

秀吉役も、完全なる、ミスキャスティングです。

 

今度、キャスティングの、クレジットを、見てみます。が、しかし、

 

まあ、しかし、上記のような、脇役でも、大役なので

 

監督・演出家が、決定したのだと思いますが、-----?????

 

何しろ、

 

ほぼすべて、ミスキャスティングです。

 

 

「惜しい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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本木雅弘、染谷将太、川口春奈…「麒麟がくる」は脇役が目立ちすぎ? 明智光秀が「主人公」に向かない理由〈dot.〉

4/26(日) 11:30配信

AERA dot.

 

 

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が始まって、3カ月が過ぎた。評判は上々で、視聴率もまずまずだ。が、SNSではこんな声も出ている。

【写真】「私は清純派じゃない!」と言い切るNHK朝ドラ女優

「主人公の影がうすい」
「主役は誰だっけ」

 ちなみに、主人公は明智光秀で、演じているのは長谷川博己。本能寺の変で有名な光秀だが、前半生は謎に包まれており、使えるエピソードがほとんどない。

 そのせいか、第14話「聖徳寺の会見」も斎藤道三(本木雅弘)と織田信長(染谷将太)を中心に描かれた。婿である信長が舅の道三を驚かせ、実力を認めさせる話だ。光秀の役回りは、事前に相手を盗み見しようとした道三に、どれが信長かを教えるというもの。また、第13話「帰蝶のはかりごと」は道三の娘で信長に嫁いだ帰蝶(川口春奈)がこのサプライズ会見の影の仕掛け人だった、という話である。

 とはいえ、これが「江~姫たちの戦国~」(2011年)のスタッフなら、史実などお構いなしに光秀を目立たせただろう。主役に上野樹里を起用したことから「のだめ大河」とも呼ばれた「江」は、主人公がどこでもドアでもあるかのように神出鬼没に活躍して、歴史上の事件に絡んでいくというファンタジックな作品だった。

「麒麟がくる」のスタッフも、光秀の前半生が謎なのでいくらでも自由に描けるはずだが、さほど荒唐無稽な展開にはしていない。歴史に対して謙虚なのだろう。

 もちろん、光秀が目立たないからといって、物語がつまらないわけではない。道三や信長、豊臣秀吉、徳川家康、松永久秀といった史実(といっても、司馬遼太郎の小説「国盗り物語」と同名大河ドラマあたりの影響も色濃いが)の上でもキャラの立った英雄たちの群像劇として飽きさせない仕上がりになっている。これで光秀も後半生になれば、使えるエピソードも増えてくるので、より濃密なドラマになっていくはずだ。

 ところが、である。ここで、ある疑問が浮かぶ。そもそも、光秀が主役ってどうなのか、はたして大河の主人公としてイケているのか、という疑問だ。

 

 

 

 

まず、光秀には華のある出世譚がない。信長に取り立てられたのも、朝廷や幕府との調整能力が買われたものだし、ドラマ映えする派手な武功に乏しい。その点、草履を温めるところから始まって、墨俣一夜城、金ケ崎の退き口、高松城水攻めなどへと手柄がきらびやかに続く秀吉とは雲泥の差である。

 そのかわり、本能寺の変という大博打をやって、三日天下であっけなく散るという、いわば一発屋的魅力があるのだが、それが今ひとつ人気には結びついてこなかった。源義経や楠木正成、新撰組や西郷隆盛のように、判官びいきの恩恵もほとんど受けていない。歴史ファンが偉大なる敗者として抱くシンパシーは、同じ戦国人でも石田三成のほうが上だろう。

 これはやはり、三成が主家と忘れ形見のために戦ったのに対し、光秀が主殺しによって天下を得ようとしたという印象の違いが大きい。そして、光秀はそのあたりも含め、イメージが全体的に暗い。昨年暮れに、歴史学者の本郷和人もNHKの特番でこんな指摘をしていた。

「ともかくあんまり自分の気持ちに正直に動くような人ではありませんね。一回全部、自分の気持ちを押し殺して、行動に移っていく」(「あの日あのときあの番組 大河ドラマで探る 明智光秀の魅力」)

 同時代の宣教師、ルイス・フロイスが書いた「日本史」にも、光秀が信長に対し「誰にもまして喜ばせ、逆らうことがないように心がけていた」という一節がある。気まぐれな主君に過剰適応して、無理を重ねていたことが想像される。

 こうした本郷やフロイスの分析とシンクロするのが、後半生のエピソードだ。比叡山の焼き打ち命令に不本意ながら従ったとか、感染症に倒れて死にかけ、看病してくれた妻が亡くなったとか、丹波攻略で自分の母親を人質に使うことまでしたのに、それが信長の方針に反したことから見殺しにしてしまったというものまである。

 さらに、本能寺の変の数カ月前には、武田滅亡をめぐる失言が信長を怒らせ、暴力的な折檻を受けてしまう。前出の特番では、過去4作の大河でこの話が描かれた場面が連続放映された。どのケースも光秀側に立つといたたまれない気分にさせられる。大河史上、光秀は「太閤記」(1965年)から「麒麟がくる」まで計16作に登場しているが、半世紀以上も脇役に甘んじてきたのはこの視聴者をいたたまれなくさせるキャラに起因するのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

というのも、大河の主人公はもっぱら、明るくマイペースで、最後に負けてもどこか爽やかだったりする。今後、光秀らしさが出てくれば出てきたで、感情移入しにくい視聴者も少なくなさそうだ。

 では、それを演じている長谷川はどうなのか。そのキャリアで記憶に新しいのは、連続テレビ小説「まんぷく」でのヒロインの夫役だ。じつはこのとき演じた役のモデル・安藤百福は秀吉型のヒーローだった。それこそ「鳴かせてみようホトトギス」の精神で世界初の即席めんやカップめんを発明し、実業家としても大成功する。その偉業をめぐる妻との協力関係は、39年前の大河「おんな太閤記」のそれにも似ていて、そういうところがウケたのだろう。

 つまり、長谷川は攻めの芝居もできるのだが「麒麟がくる」では受けの芝居を優先しているように思える。キャラの立った英雄(および、帰蝶のような女傑)たちに振り回されながらも、飛躍の機会を待っている状態だ。言い換えれば、SよりMっぽいスタンスなのだが、光秀自体そういうイメージだから、これでもいい。むしろ、このドラマは主人公のMっぽいもどかしさを楽しむべきものなのではないか。

 ただ、このもどかしさには最近の大河全般が抱える問題も影響している。国民的ドラマである以上、主役は特に、現代にも受け入れられる価値観を持っていなくてはならないという問題だ。たとえば「天地人」(2009年)の主人公・直江兼続は平和を好む愛の武将として描かれた。愛という文字をあしらった兜をかぶっていた史実からだが、その由来は愛宕信仰だとする説が有力で、現代的な愛を意識していた可能性は低い。しかし、最近の大河ではあのような描き方が望ましいのである。

 

 今回の「麒麟がくる」も、聖なる獣・麒麟を平和の象徴に見立て「麒麟は一体、どの英雄の頭上に現れるのか……」(公式サイト)というテーマを掲げている。が、平和への意識を持たされているのはもっぱら光秀で、他の道三、信長、久秀といった人物はわりと自由に権力闘争に明け暮れている感じだ。それゆえ、光秀は傍観者的というか、ちょっと浮いていて、現代人が中世的世界に迷い込んでいる雰囲気すらある。主役なのに、不自由にも見えるのである。

 この流れだと、最終的には、光秀が凶暴化する信長に絶望して、自らが麒麟を呼ぶ英雄たらんとして本能寺の変を起こす、ということになりそうだが、その希望もすぐに潰えるので、視聴者に快感は残らない。最後まで、もどかしさは解消しないだろう。

 とはいえ、これは判官びいきされない敗者・光秀をあえて主役にした大河の宿命でもある。能力的にも性格的にもギリギリのところで天下に届かなかった男のもどかしさ。いわば、主役の不自由性を楽しむことこそ、この王道のようでちょっと異端な大河ドラマの醍醐味なのかもしれない。

●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など

 

 

 

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