「ペリー提督の前で米兵に圧勝した巨漢力士」はアメリカでどう紹介されたのか

11/18(月) 11:51配信

PHP Online 衆知

 

<<江戸から昭和時代にかけ、千葉県から輩出した50余名の力士の生涯を追った異例の研究書が発刊され話題を集めている。それが大相撲史研究者の谷口公逸氏による『房総大相撲人國記(ぼうそうおおずもうじんこくき)』である。

谷口氏によると、千葉県出身力士に絞って書かれた書籍は非常に少なく、半世紀前に刊行された『千葉県と相撲』と題する小冊子を最後に、情報がアップデートされていなかったという。

同氏は、力士たちの生家・子孫・墓所・史蹟などの現場を訪ね歩き、江戸時代から昭和時代にいたる絢爛たる相撲史を紐解きながら、上総、下総、安房出身力士の記録をまとめあげた。

同書において、「海外に初めて紹介された力士」である小柳常吉について検証している。「腕自慢の艦隊員を次から次へと組み伏せた」とする日本の文献とアメリカの文献を、谷口氏が比較しながらその実際を検証している。本稿ではその一節を紹介する。>>

※本稿は谷口公逸著『房総大相撲人國記』(彩流社刊)より一部抜粋・編集したものです

人気力士ゆえに負けても番付が下がらなかった?

今から約160年前の嘉永7年(1854)、本当の“黒船襲来“で日本に開国を迫った、ペリー提督(1794~1858)に関係する。

ぺリーが帰国後に著した“Narrative of the expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan“(邦題『ペルリ提督日本遠征記』)の第20章で、唯一、“KOYANAGI” と紹介された力士である。

日本人力士のしこ名が海外で紹介されたのは、筆者の知るかぎり本稿に登場する「小柳常吉」が第一号である。

小柳常吉は、徳川11代将軍家斉の治世、文化14年(1817)8月、上総國市原郡上高根村(千葉県市原市上高根)に父高石利助、母まつの長男として生まれ、名は桂治。生家は質屋を営むかたわら農業をしていた裕福な家だったという。

小柳は天保5年(1834)、数え18歳で大関阿武松緑之助(当時すでに横綱免許)に入門したのである。

翌6年正月、緑松八十吉のしこ名を名乗りで三段目格として初土俵を踏むも全敗。しかし、次の10月場所幕下十一枚目まで上がり、下の名を「慶治郎」に改名するも、2敗してのち休場してしまう。

この場所、師匠である阿武松が引退し、そのまま年寄初代阿武松となる。翌天保7年2月には、新十両(幕下九枚目)に上がり、「常吉」を名乗った。ここでも1勝4敗1預に終わった。にもかかわらず次場所の番付はまた上がっている。下がる事がないのである。

江戸時代の相撲は勝ち越し、負け越しによって番付の昇降を捉えてはならないと強調してきたが、小柳のケースはその度を超えている。これほどまでに負け越しを続きの力士が、なぜ厚遇、大抜擢されたかは全くの謎である。

おそらくは、そのあまりの大兵肥満ぶりが「将来の大物」と相撲会所(= 協会)の目にも映り、人気もあって興行面からも期待されていた。そして何よりも師匠阿武松の威光がモノを言ったとしか考えられない

 

 

 

 

 

36歳にして念願の大関昇進

天保8年10月、先代の小柳長吉が大関昇進に伴い手柄山と改めた際、「小柳」の名を継ぎ小柳常吉となった。そして天保11年(1840)2月、東六枚目の幕尻にようやく新入幕したものの、またまた4勝五敗と負け越し。

10月の番付は三枚上がった前頭三枚目で3勝4敗と負け越していながらまた一枚上がって前頭二枚目となる。そして、ついに天保12年1月場所になって2勝1敗5分とようやく勝ち越し、以降連続九場所前頭筆頭になるが、今度は皮肉にも番付の上昇が滞るという経過を辿る。

天保15年10月は阿波徳島藩の抱えとなる。しかし当時多くの幕内力士は大名のお抱えになるのが一般的であったにも拘わらず、小柳はこの一場所のみ番付に「阿波」と記されている。

翌弘化2年(1845)11月小結に昇進し、以後関脇、小結を連続14場所、6年在位するも番付の上に鏡岩、剣山がつかえていて大関に上がることが遅くなった。

待望の大関の座に上ったのは嘉永5年(1852)11月である。しかし、年齢はすでに数え36歳になっていた。

ペリー提督の前での相撲披露 腕自慢の黒船船員を次々と返り討ちに

嘉永7年1月16日、アメリカのペリーが前年に続き再び来航、三浦半島の突端、浦賀 (神奈川県横須賀市)に停泊し、幕府との条約締結へ「待ったなし」の交渉に入った。もう逃げ場のない日本の事態に、江戸の町はてんやわんやの大騒ぎ、角界もまたその時流に飲み込まれてゆく。

相撲会所は、前年の黒船来航の際、幕府に対して、ことある時は協力する旨、既に申し出ており、この時いよいよ力士の出番となったのである。

日米間で和親条約の締結交渉中の2月26日、神奈川に設けられた接見所(=現在の横浜開港資料館付近)で、ペリー提督(=東インド艦隊司令長官)へ御進物運搬及び相撲を披露するため、会所は大関小柳、鏡岩を筆頭に力士を送り、幕府の要請に一役買って出たのである。

『武相叢書』(武相考古會・昭和4年)に収録されている『亜墨理駕船渡来日記』(=石川本)の記述を精査してみると、最初に幕府へ上申したリスト(幕内力士20名幕下以下名の合計84名)には大関小柳常吉、鏡岩濱之助、そして巨漢白真弓肥太(飛騨)右衛門は入っておらず、本番1週間前会所から、差替えを追加願い出て、参加したといういきさつである。

まさか温存しておくためではなかろうが、なぜか当初は候補から除外されていたのである。

力士によるデモンストレーションの様子を日本側が書き記した文書は2、3あるが、その中で『徳川實紀・巻三「温恭院殿御實紀」』(国立国会図書館蔵)、2月16日の項に簡単な記述があり、これが一級資料として諸書に流用されていったようである。

要約すると、「浅草御蔵前から廻船し、横浜に運んだ5斗入り米200俵、鶏300羽を力士50人が積み入れたが、その際小柳に注目が集まり、白真弓が米8俵を担ぎ、ある者は頭に乗せ、銜えたりして運んだ。

その後、船内にいる大力大兵の者が小柳に試しに相撲を取りたいと願い出て対戦。小柳は一人を脇へ掻き込み、一人を押し伏せ、一人差し上げた。艦隊員みな喝采を送った。

通詞(=通訳)の森山榮之助を通じて、『どうやってこんなに強くなったのか?』と質問あり、小柳は『日本のおいしいご飯(米)を食べ、うまい酒を飲んでいるからだよ』と答えたという」

『嘉永明治年間録』もほぼ同じ内容で、『日本相撲史 上巻』(酒井忠正著)は『龍神出場紀』からの出典だがこれも大差ない。

 

 

 

 

アメリカの文献でも紹介された“KOYANAGI“

なお、ペリーの前出『日本遠征記』の英文原書によれば、この一件は西暦1854年3月24日の出来事で、旧暦では嘉永7年2月26日にあたるが、「温恭院殿御實紀」とも2月16日(旧暦)の事として記述している。日本側の史料では日付が17日とするものも散見する。

一方、アメリカ側が纏めた英文原書の記述を見ると力士のデモンストレーションの件くだりはわずか100行、2ページ余りで、アメリカ本国の英雄、拳闘チャンプでトム・クリブスやヤコブ・ハイヤーズに例えて、チャンピオン「小柳」と紹介され、力士名は彼だけで白真弓の名は記されていない。

ペリーは小柳に目がとまり、自らの所へ呼び寄せ、腕や首を触って感嘆している記述はある。

ただ、原書に記述された表現にはmonster (怪物)、ox(雄牛)、elephant (象)など動物を力士の形容に当てたほど、彼らの目には筋肉の塊をしたアニマルに映ったに違いない。

土俵入り、稽古相撲には、さして興味を注がれたような記述はみられない。日本側の記述に細かなところを具体的に書き記してはいるが、日米ともにこの史実を極めて忠実に、そして簡潔に書きとどめているのは印象深い。

ただし、この話、「小柳」対「船員」との対戦も、こぞって出版された瓦版(かわらばん)の記事が流布され、のちのち尾ヒレが付いて「腕に覚えのあるアメリカ水兵、ボクシングやレスリングの経験者ら3人(わざわざ名前を明記したものもあり)が挑戦したいとの申し出に、大関小柳が受けて立ち、面倒とばかりに3人を一遍に相手にして、一人を足で踏み敷くと、一人は脇に抱え、もう一人は片手で高く差し上げて、彼らの心胆を寒からしめる圧勝ぶりを見せつけた」というような猛者ぶりが相撲の歴史を扱った諸書に書き継がれていった。

しかし、この船員の件は腕に少し自信のあるものが挑んだもので、ボクサーとかレスリングの経験者、ましてや個人名などは一切英文原書には記述されておらず、それ以上の情報は書き留めてはいない。

はっきり言えば相撲に関してはさして関心を示さなかったという方が当たっている。日本側も前出の「温恭院殿御實紀」のとおりである。

戦後の相撲の読物にこぞって書かれた、ボクサーやレスラーと異種格闘技の夜明けだなどと書かれた雑書は尾鰭を付けた脚色で、面白おかしく書き足されたものがあたかも実話だったかのように思い込んでいる人も多い。

ネタ本は昭和22年(1947)、下田文化協会が発行した『黒船談叢』から題材をとったものであろう。いずれにせよ、御家一大事のこの“事件”も瓦版や錦絵としても売り出してしまう江戸っ子のおおらかな気質には脱帽する。

谷口公逸(大相撲史研究者)

 

 

 

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