「なんでだろうううう???---」

 
 
 
 
 
 
例えば、
 
 
「6 : 4」で、日本語の方が達者
 
とか、
 
同様に、日本での知識・教養・常識が英語圏のそのものより、断然勝っているとか、
 
とか、
 
居住年数が、”6 : 4”
 
で、日本の方が、長い、とか、
 
他人が、第三者が見ても、文化的に、”6 : 4”で、
 
 
如何にも、日本的とか、日本人的、だとか?
 
 
なら、十分理解できますが、
 
 
大坂なおみちゃんの場合は、
 
 
”7 : 3”、
 
いや、
 
 
”8 : 2”くらいで、
 
 
アメリカ的です。
 
 
それが、日本を選ぶとは、
 
何を、何が、そうさせたのでしょうか????
 
うれしいと、同時に、不思議です。
 
メディアのインタヴューの質問を、待つしかありません。
 
 
 
 
 
 
 
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テニス大坂選手が日本国籍選択

10/10(木) 18:36配信

共同通信

 

 

 

 女子テニスで日米両国の国籍を持ち、東京五輪に日本代表として出場を目指す意向を既に表明している大坂なおみ選手(21)が今月に入って日本国籍を選択する手続きを行ったことが10日、分かった。

 

 

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191010-00000162-kyodonews-spo

 

 

 

 

 

野球  か、  ベースボール か?

 

二者択一

 

 

 

 

 

 

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「日本国籍」取得した元米国人の斬新な本音

国籍とはもっと柔軟な概念であるべきだ

https://toyokeizai.net/articles/-/160486

 

 

東洋経済

 

私は昨年12月に日本人になった。もともとは米国人で、日本人の先祖すら持たない米国の家庭に育った。日本人になることを選んだと同時に、二重国籍を禁じる日本の法律に従い、米国国籍を放棄した。世界中の多くの人が欲しがる米国国籍を「あきらめた」ことに多くの知人がショックを受ける一方で、私と似たような人生を送ってきた人々にとってはまったく驚きに値しなかったようだ。

通信や輸送技術が発達した今日では、世界はかつてよりずっと小さくなり、外国が近く感じられるようになっている。その結果、自分がルーツを持たない国で新しい国籍を取得しようとする人々が少数ながら増えていると感じる。

国籍を変更する理由とは?

国籍を変更する理由は何だろうか。私の場合、その答えは簡単だ。私には日本に子どもがいて、日本を拠点とするキャリアがあり、大人になってからのほとんどの時間を日本で過ごしてきた。いまや故郷より日本のほうがしっくりくるほどだ。それに、安全や保護の観点から見ても、永住ビザより国籍のほうが保障される気がする。

過去にも日本国籍を取得した有名人は何人もいる。名高い学者であり、作家・翻訳家であるドナルド・キーン(通称=鬼怒鳴門)は、その1人だ。また、明治時代に活躍した国際的作家の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)や、国籍取得後、弦念丸呈となったフィンランド出身のツルネン・マルティは、 国会議員を務めた。しばしば論争の的になる人権活動家の有道出人(デイヴィッド・アルドウィンクル)は2000年に日本国籍を取得。タレントのボビー・オロゴン(近田ボビー)のほか、多くのスポーツ選手も日本に帰化している。

もっとも、日本国籍を取得する人の誰もが、花形スポーツ選手や有名人、文豪、政府関係者というわけではない。福岡在住の英国人男性、Pさんも有名人ではないが、帰化を希望している1人だ。彼は実利的、そして思想的信条の理由から国籍変更を決心した。「私には日本人の子どもが2人いて、日本以外で暮らす未来は考えられない。私は今後も日本に住むと決めている」。日本に長く暮らし、日本でキャリアや家族を持つにつれ、故郷の重要性は徐々に薄れていったのだという。

 

 

 

帰化に踏み切ったもうひとつの理由は、永住ビザと国籍の違いだ。永住資格も国籍も永久に日本に住み続けることができるため、はた目からは大した違いがあるようには感じられないかもしれない。しかし、当事者にとっては、実はそこには重要な違いがある。「外国人」として日本に滞在し続ける許可が政府から与えられるのが永住資格であるのに対して、国籍とは、それに伴う保護も含めて日本国民として滞在し続ける権利があるということだ。

ここでカギとなるのが、「許可」と「権利」である。日本に生活の拠点を築いている人にとって、ビザは奪われたり、失効したりする可能性があることから、永遠にビザで滞在するという考えは不安定なのだ。そのうえ、個人的レベルでいうと、国籍を取得するということは、永久によそ者として滞在する代わりに完全に日本社会の一部となる一歩を踏み出すということでもある。Pさんは「社会の端っこで生活するのは嫌だと思った」と話す。

さて、日本国籍を取得するにはどういう手順を踏む必要があるのだろうか。まず、国籍取得の申請をするには5年以上滞在している必要がある。そのうえで、法務大臣の許可を得てから、書類審査を受けなければいけない。

私の場合、米国での人生のすべてにかかわる書類をひととおりそろえる必要があった。それには、兄弟の出生証明書から両親の結婚証明書、米国市民権の証明書まで、日本で新たな戸籍を作るのに必要なものがすべて含まれていた。このほか、日本での収入証明書や現在の戸籍や住民票、納税申告書の控え、そして、ほかにも日本での安定した生活を証明するさまざまな書類が必要だった。たとえば、職場と家までの手書きの地図、私が住むアパートの外観と部屋の写真まで用意する必要があった。もうひとつ、日本国籍の取得を目指す動機書も提出しなければならない。

米国籍取得のほうが難しい?

地元の区役所や税務署から証明書などを得るのは大した手間ではなかったが、米国からすべての書類を取り寄せるのには数カ月かかった。帰化するにはこのほか、即興のスピーキングとライティングのテストがあったが、初歩レベルの日本語力しか求められないため、いずれもそれほど難しくない。さらに詳細な家庭訪問が必要な場合もある。私の場合、最終的に13カ月かかったが、そのほとんどは書類審査を待つ時間だった。

一方、米国籍を取得するのは、これより長期間かかり、難しいと感じる。たとえば、国籍を取得するための試験。日本では基本的な会話と自由テーマの文章を2段落ほど書くだけなのに対して、米国籍を取得するにはスピーキング、リーディング、ライティングから成る英語のテストのほか、米国の歴史や政治にかかわる試験も受けなければいけない。日本では申請から承認までに要する期間は平均1年間であるのに対し(出身国によってさらにかかるケースもある)、米国の場合は早くて半年だが、数年かかる場合もある。

 

 

 

 

 

ちなみに、日本のように二重国籍を認めていない国に国籍を変更する場合は、元の国籍を放棄しなければならない。米国人が国籍放棄を希望する場合は、面接を受けてその理由を弁明し、放棄手数料としてなんと2350ドルも払わなければいけない。これはもともと450ドルだったのが、近年米国籍を手放す人が増加していることに伴って値上げされたのである。

しかも、国籍を放棄する人(や永住権を放棄する人)は、過去5年間の所得税の納税証明書を提出しなければならず、その5年間の平均年収や保有資産に応じて「退去税(Expatriation Tax)」を支払わなければならない。こうした事実を踏まえると、米国人は海外在住中に自国に所得税を支払う必要がある数少ない国民だといえる。ちなみに、非居住者が外国で得た収入に対して課税するもうひとつの国は、エリトリアである。

さて、国籍取得の問題について議論するとき、考えなければいけないのが、主に欧州や中東に移住するシリア難民についてだ。彼らの多くは、内戦で分断されたシリアから命からがら逃げ出してきており、身分証明書すら持っていないケースが少なくない。無事に亡命できたとしても、その多くは現在も国籍どころか、居住権すら得てない可能性がある。加えて、5万人以上のシリア人の子どもが亡命先で生まれたとみられている。

日本人が考える「国籍」とは

これだけ多くのシリア人が国外へ流出している中、「国籍」はもっと現実的かつ実践的、そして柔軟に語られる必要性が生じてきている。特に亡命先で生まれた子どもの場合、その多くは自らの故郷を知ることなく、新しい国で育つことになる。しかし、その国で永住権、あるいは国籍を得られないかぎり、将来シリアへ強制送還される可能性もある。こうした事態を避けるためには、シリア難民は亡命先の居住者または、国民として認められ、新たな社会の一員となる必要がある。

国籍とは実際のところ極めて複雑な概念で、「国籍(合法的にその国に所属すること)」と「民族性(言語、人種、地理的なつながりなど))」の違いを理解していない人は少なくない。文化的背景や人種、伝統などはそれに付け加えられるもので、また別の問題だ。日本人は国籍と民族性をほとんど区別しないとしばしば指摘され、日本人であることは、日本国籍と民族性の両方を持つ人を指すと思われている。この考え方は、日本のテレビや日本人論を語る数多くの書籍においてよく見られる

 

 

 

もっとも、それは日本に限ったことではない。たとえば米国人の場合、国の歴史が浅く確固とした文化的統一性に欠けていることから、しばしば文化的アイデンティティの代わりとして深い愛国心と国家的アイデンティティに頼っているところがある。

実際、多くの米国人にとって(悲しいことに)「真の米国人」とは米国で生まれ育った人のことを意味する。欧州諸国は一般的に、より国際的かつ広い視野で世界をとらえているが、それでも隣国同士でも異なる文化が歴史を持つことから、問題が生じることがある。結果、個人的なアイデンティティの一部として国籍にしがみつく人たちも多く見受けられる。

「国籍」を選べる時代になっている

しかし、実際のところ今日の世界では、国籍はますます個人のアイデンティティとは関連性が薄くなっているのではないか。グローバル化や、文化、思想の国際的統合に加え、世界中で人の移動が容易かつ盛んになっていることや、グローバル企業の台頭などによって、個人レベルでも、より自らの生活や思想などに見合った選択をする人が出てきている。具体的にいえば、より多くの人が自らの意思で海外に移住し、そこで永住権を得たり、国籍を取得したりし始めているのである。

一方、シリア難民問題はこれとは異なる。内戦によって国外退去を余儀なくされた人たち、特に若者の多くは今後、自らのアイデンティティをどのように形成し、周りから「何人」として見られるのかという問題に直面することになるだろう。つまり、自分のアイデンティティにおける国籍の重要性が低下する一方、特定の国家との法的なつながりだけが残るのである。

ある人の文化的、あるいは民族的なバックグラウンドは変わることはない。しかし、国籍はもはや凝り固まった方法で定義されない、柔軟性のある概念であり、変更することも可能なのだ。こうした考えが世界に浸透するにはまだ時間がかかるだろう。しかし、国籍についてより柔軟に考えるべき時はきている。

結局のところ、国籍の意味や意義は、客観的に語れるものではない。国籍とは極めて個人的なものであり、また、個人の深い問題にかかわるものである。そしてこれは、私のような、生まれてきた国とはまったく異なる文化に、その社会の一員として身を置きたい人たちにとっては、さらなる自由とより多くの機会を手にすることを意味する。あるいは、亡命先で生まれたシリア難民にとっては、新たな国での出発を意味するかもしれないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真木 鳩陸 : フリーランス翻訳家、ライター