前にも、似たような記事を、どこかで、書きましたが、

 

新たに、もう一度。

 

 

 

 

 

 

 

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「タテマエ」はエレガント─フランスの超一流シェフが大切にする“和の心”

9/22(日) 10:00配信

クーリエ・ジャポン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フランスの国民的な有名シェフ、ティエリー・マルクス。“大の日本好き”として知られる彼は、和食はもちろん柔道・剣道・茶道も嗜む。また、料理人になる以前は軍人として激戦地に赴任するなど、異色の経歴の持ち主でもある。

貧困地区で柔道を心の支えに育った“持たざる少年”は、いかにして超一流のフレンチシェフへとなったのか? いまも彼が大切にしている“和の心”とは?
二つ星のシェフなのに、ときどき刑務所の中に入る──。

フランス人料理人ティエリー・マルクス(59)にはそんな顔がある。とはいっても塀の中で刑期をつとめているのではない。

マルクスはパリの高級ホテル「マンダリン・オリエンタル・パリ」の総料理長。同ホテルのメインダイニング「シュール・ムジュール」はミシュランの二つ星だ。10年ほど前から月に1回の頻度で受刑者に料理を教えている。強盗や殺人の罪で捕まった彼らが10~20年後に出所するとき、社会復帰の一助となればと願ってのことだ。

長い刑期を前向きに過ごすには「出所後にしたいこと」を心に描けなければならない。そう考えての社会活動だ。料理のレッスンは受刑者に評判がよい。レッスンで作った料理を食べて、人生で初めてまともな食事をしたと感想を述べる人もいる。すでに出所した仲間の一人が南仏でシェフとなって店を経営しているそうだ。

マルクスは「パリ・マッチ」誌にこう語っている。

「チャリティー・ビジネスをしているのではありません。休みの日に市民としてすべき行動をしているだけです。

受刑者に息抜きをしてもらうつもりはありません。私が料理の知識を伝えることで生きる張り合いを感じてほしいと思っています。撒いた種が、ある日、実を結ぶことがあるかもしれませんしね」

「日本のシツケ」がお手本

マルクスが社会復帰の支援をしているのは刑務所だけではない。マルクスが2012年に創立した学校「キュイジーヌ モード・ダンプロワ」では、ニートの若者や長期失業者などが無料で料理や製パン、給仕作法を学んでいる。

学校の運営資金は、公的な補助金や企業のメセナ、それから研修生の料理を出すレストランの売上で成り立っている。通常は1~2年かかる料理人養成カリキュラムを短縮し、12週間で調理技術と基本のレシピを叩き込む。

「いまの若者はズボンの後ろのポケットにスマートフォンという二つ目の脳があるから、レシピをたくさん覚えるのは不要」

それがマルクスの持論だ。

「若い人は盛り付けばかりしたがるけれど、味覚自体を養うために、ブイヨンの作り方、魚のおろし方といった基礎が肝心」

これもまたマルクスの持論である。

創立から7年たった現在、この学校はフランス全土で8校を構えるほどに成長した。無料で教える代わりに、「やりたいことがはっきりしていて、その目標に向けて努力する覚悟がある人」しか受け入れない。だから研修希望者の面接では必ず次のような質問をする。

「あなたの過去には一切関心がありません。あなたがどんなに運が悪かったかは知りたくありません。いまあなたがしたいことを教えてください」

研修期間中は遅刻も欠席も許されない。違反したら退学だ。手本としているのは、日本の「シツケ」なのだという。

厳格な方針が功を奏したのか、これまでこの学校で研修を終えた3000人のうち、94%が就職・再就職を果たし、70人が起業した

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「柔道」が人生を変えた

ティエリー・マルクスがこうした社会活動に積極的に取り組むのは、彼自身がパリの貧しい家庭の出身だったからだ。

父親は建設作業員で、母親は研究室の検査助手だった。祖父はポーランドからフランスに移住したユダヤ系の共産党員で、第二次世界大戦中はレジスタンス運動の闘士だった。

祖父は日曜日になると、まだ子供だったマルクスを連れてマルシェ(市場)に行き、共産党の機関紙だった「リュマニテ」紙を売り歩いた。マルクスはこの経験を、後に「リベラシオン」紙でこう振り返っている。

「アンガージュマン(社会参加)をしている活動家たちをあの場で知りました。勇気のある人たちでした。(フランスで人民戦線が政権を獲得した)1936年の精神が感じられました。私にとってはいまでも人生の手本としている人たちです」
マルクスの家族がパリ郊外の低所得者向け団地に引っ越したのは、マルクスが12歳のときだった。シャンピニー=シュル=マルヌという、荒れた地区だった。

もともと学校が好きではなかったマルクスは、14歳になった頃には、学校にほとんど通わなくなっていた。不良少年とケンカをしたりしながら無目的な日々を過ごしていたという。

彼自身が非行に走らずにすんだのは6歳から始めた柔道のおかげだった。家の近くで柔道やボクシングのクラスが無料で提供されていたのだ。13歳のときに出会った師が、フランスで50年以上柔道の指導に尽力した粟津正蔵だった。

学校での座学が苦手だったマルクスだが、体を実際に動かしながら学んでいく柔道の稽古を通して自信を取り戻していった。マルクスは「ロプス」誌で当時をこう振り返っている。

「私は恵まれない地区で育ちました。学校の成績は無残でしたけれども、自分はこの地区から出てみせる、この社会階層から出てみせるという信念がありました。

周りでは何かにつけ『オレたちみたいな奴にはできないよ』とか言う人がいましたが、そういった言葉が耐えられませんでした。社会のシステムにパンチを打ち込むつもりでした」

 

 

 

 

 

 

「兵士」になったパティシエ

ニートになっていたマルクスに、「コンパニョナージュ」と呼ばれる職業訓練制度を勧めたのは祖父だった。コンパニョナージュとは、見習いを迎え入れて、職人に養成していく中世から続く歴史のある制度だ。

訓練は厳しいけれども、見習いを人として尊重してくれるところがあって、それがマルクスの性に合った。マルクスはその制度を利用してフランス各地を巡りながら、パティシエのCAP(職業適性証)を取得した。

だが、一家が暮らすパリ郊外に戻ると、パティシエの資格は何の役にも立たなかった。マルクスは18歳で軍隊に入った。配属されたのは海兵歩兵落下傘連隊。レバノンに国連軍の兵士として赴き、戦地も経験した。レバノンでは、キリスト教系政党・民兵組織の「ファランヘ党」に傭兵として加わった時期もあった。

死者なら、見たくないほど見た。記憶に残っているのは戦争の恐怖、それから空爆の隙に灼熱の日差しで熱されたドラム缶を使ってファラフェルを揚げる男。それを見て、現代に英雄がいるとすれば、爆弾が降り注ぐなかで料理をする人間だと思ったそうだ。

3年の軍隊生活の後、フランスに帰国。警備員や倉庫作業員として働きながら、夜学で勉強し、25歳でようやくバカロレア(大学入学資格)を取得した。パティシエなのに、ケーキに「ボナニヴェルセール(フランス語で「誕生日おめでとう」)を正しく綴れなかった苦い経験をバネにして読書にも励んだ。

「忠告」をくれたタクシー運転手

その頃、たまたま雑誌を読んでいたら、オーストラリアのリージェンシーホテルがパティシエを募集していることを知った。英語はしゃべれなかったが、とにかく応募して行ってみた。

すると、求められていたのはパティシエではなく料理人だった。シェフから「フランス人なら料理全般を知っているだろ」と言われたら、もう断れなかった。さいわいにも『フランス料理総覧』を持っていっていたので、1年はごまかし通すことができた。

ところが、ある日、労働許可証の更新のために役所に行こうとしてタクシーに乗ったら、運転手からこう言われた。

「オーストラリアで料理人の修業なんて、どうかしているよ。世界最高のシェフはみんなフランスにいるんだろ」

マルクスは社員寮に戻りながら、「あの運転手の言うとおりだ」と納得し、フランスに帰ることに決めた。

とはいえ、マルクスにはフランスの料理界に入り込むつてがまったくなかった。だから就職活動には厚かましさが必要だった。『ミシュランガイド』を買い、有名シェフの店を片っ端から訪ねることにした。マルクスは自分の就職活動について、「ル・モンド」紙にこう語っている。

「(ブルゴーニュ地方ソーリューの名店『ラ・コート・ドール』の)ベルナール・ロワゾーの扉を叩き、見習いとして雇ってくれないかと訊きました。ロワゾーは私の履歴書を見て、怖気づいたようでした。

でも、『ずいぶん長い道を歩んできたのだから』と言って、私をランチに引き止め、自分の店の料理を食べさせてくれました。寛大な人でした。ロワゾーは自分の歩んできた道を語ってくれ、私にアドバイスもしてくれました。私にとってそのランチは人生で初めて味わった高級料理でした」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなロワゾーの名前を使って…

「パリに戻ると、すぐに『タイユヴァン』に行きました。シェフのクロード・ドリーニュから『どこから来た?』と尋ねられたので、『ベルナール・ロワゾーのところからです』と答えました。

完全に嘘とは言えませんが、本当かといえばそうではありませんでした。でも、ドリーニュは、『明日朝8時に来い』と言ってくれました。私は翌日、朝6時半に店の前に立っていました」

タイユヴァンでしばらく働くと、ある日、シェフのドリーニュから、こう言われた。

「君は見習いとしては年を食っているが、部門シェフを務めるにはまだ能力が足りない。誰のところで、仕事を覚えてみたいか?」

マルクスはすぐに書店に行き、レストランガイドの『ゴ・エ・ミヨ』を開いて一番評価の高いシェフを探した。こうしてマルクスには、ドリーニュの紹介で、ジョエル・ロブションやアラン・シャペルなど時代を代表する料理人のもとで修業を積む道が開かれたのだった。

レバノンやオーストラリアで暮らした経験のあるマルクスは、その後、日本やタイやシンガポールに行き、それぞれの土地の料理を学んでいった。そうした各国料理の特色をフランスに持ち帰って、フランス料理に反映したところがマルクスの特徴である。

マルクスの代名詞といってもいいのが、米の代わりに米粒の大きさに切ったモヤシを使ったリゾット。アジアらしさが感じられる一品だ。

「タテマエ」はエレガント

日本には80年代から柔道の修行のために来ていたが、食の研究のために来たのは30歳の頃。四ツ谷の「オテル・ドゥ・ミクニ」で働き、その後、大阪や京都で和食を一から学んだ。

来日回数は、歌手アダモやフランス元大統領ジャック・シラクの来日回数の合計を上回るという。マルクスは「レクスプレス」誌にこう語っている。

「日本人の慎み深さにエレガンスを感じます。私が好きなのは、日本人の言う『タテマエ』ですね。言いすぎてしまうくらいなら、何も言わないほうがいい。本音を表に出さないのです」

フランスやアメリカの経済誌の取材を受けるとき、ダグラス・マッカーサーが愛唱していた「青春」(サムエル・ウルマンによる詩)を引用したりするところも日本の経営者に似ている。
青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる
マルクスの店では、スーシェフ(副料理長)などを日本人料理人が務めているが、それはマルクスの和食のイメージを以心伝心で理解してくれるからなのだという

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年秋には渋谷で新店舗も

それにしてもパリの貧しい郊外から出発して、現在の成功をつかむまでの道程は長かった。25歳のときは一文無し。それから優れた職人を目指し、経済的に自立したのは40歳のとき。50歳になってから会社経営者としての風格も出てきた。

現在、彼の会社「TM4」の傘下で働く人の数は700人。総売上高は6500万ユーロ(約78億円)。前述の二つ星レストラン「シュール・ムジュール」のほかにも、フランス風にアレンジしたどら焼きを売る高級ストリートフード店「マルクシト」やエッフェル塔内のブラスリー、パリ内に4店舗を構えるパン屋などもある。

そのほかには、前述の料理学校「キュイジーヌ モード・ダンプロワ」や、若者が柔道などのスポーツを通じて警備関連の仕事に就けるようにする学校、SNS向けの料理写真家養成学校も運営している。

パリ第11大学の物理化学の研究者ラファエル・オーモンとは共同で「食の未来」を研究しており、その成果の一部は『現代フランス料理科学事典』として日本でも出版されている。著書は15冊以上。2017年には京都とパリを舞台にしたグルメミステリー小説『人は頬張ったまま死なない(未邦訳)』を共著で出版している。

テレビでも、リアリティ料理番組「トップ・シェフ」フランス版の審査員を5期務め、顔もよく知られている。宇宙食を開発したり、地下鉄を一時的にレストランに変えるイベントにも携わったりする。

日本でも銀座に自身の名前を冠したレストランを構えるほか、

 

 

 

2019年11月に渋谷でオープンするスクランブルスクエアには彼のパン屋が出店される。

仕事のために「やらないこと」

これらの仕事に加えて、柔道とボクシングと剣道のトレーニングを毎朝、種目を変えながらこなしている。いったいどうやってスケジュールを管理しているのだろうか。マルクスは「ウエスト・フランス」紙にこう語っている。

「25分以上の会議は厳禁です。10行以上のメールも同じです。毎朝5時45分に起床して、6時半にはトレーニング開始です。職場についたら、すべてが計画通りに進むようにしています」

「無駄なおしゃべりを減らしています。アイディアを思いついたら、すぐに試してみる。それで失敗したら、何がダメだったか分析するチャンスを得たと考えます。

基本方針は『事実には厳しく、人には親切に』。戦犯探しはしません。スケープゴート探しは時間の無駄です」

仕事を人に任せるのもマルクスの特徴だ。

「ただし任せっ放しはしません。仕事を任せた人が、要領を得た短いフィードバックをたくさんしてくれるのが望ましいです。任せっ放しは、権限の放棄であり、非常に危険です」

 

 

 

 

 

 

 

和の心に学んだ“経営の秘訣”

マルクスを取材する記者たちが驚くのは、厨房の静けさである。怒声や罵声が当たり前の欧米の厨房とは対照的なのだ。この静けさは、マルクスが週に1回、45分間瞑想していることと関係しているのかもしれない。マルクスは「ル・モンド」にこう語っている。

「グループの命運を左右するような決断を、たった一人で下さなければなりません。瞑想することで、心が穏やかになり、躊躇や疑念なく意思決定ができます。どの道を進むべきか、どの角度から問題に取り組むのがいいかが探れるのです」

「日本にいたとき、ある先生から『どんなに忙しくてもお茶を淹れる時間はあるはずです』と言われたんです。要するに、どんなときでも一息いれて、考える時間はあるということです。

重要な会議のとき、誰かが私の気にさわることを言い始めたら、とにかくその人に意見を言ってもらいます。自分の意見を述べるのは会議の最後に回し、落ち着いて、言葉を選びながらします。その場で反応すると、かっとなってしまったりしますからね。

刑事裁判の判決を待つ、厳しい状況にある若者にアドバイスを求められたりしたとき、私はいつもこの心の持ち方を教えています」

マルクスの職場の離職率が低いのは、こういったところにも要因があるのかもしれない。

「どんなときに自分に誇りを感じますか」という「ロプス」誌の問いには、マルクスはこう答えている。

「三つ星がもらえたらうれしいですよね。でも、いちばん心に響くのは、研修生に『自分の人生の方向を変えてくれて感謝しています』と言われるときですね。貧乏は耐えがたいです。でも、貧乏から抜け出すために闘わないのは、さらに耐えがたいですから」

 

 

 

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190922-00000002-courrier-int&p=6

 

COURRiER Japon

 

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