楊海英(本誌コラムニスト)さん、




日本の相撲は「国技で神事で品格あり」?----ではなく、「あるべき」

ーーーガ、正しいのです。



外国人や、外国人力士には、判らない。と思っていること自体が、「過剰な、理解・感覚」で、これこそが、一つの、日本人と、外国人の「乖離」「へだたり」「ギャップ」を、作り出すものです。


日本人は、外国人には、日本の物は、ことは、絶対に、理解できない―――――と、日本人は、思っているだろう?-----と、想像することが、「大きな欠陥」なのです。

こと、こと、大相撲に
関して、99%の現役力士と、引退力士と、親方たちは、「品も、教養もありません」

日本人は、私自身も、日本人の多くも、そう思っております。
日本人を、誰も、擁護なんかしておりません。
良く、テレヴィで、相撲部屋が、移されますが、
―――――あれが、品がありますが、

汚い、
整理整頓ができていない
食べ方、まなー

99%、すべて、といっていいくらい、「品がありません」

そんな現実の中で、

せめて、土俵の上では、「品」「品格」を持て、

と、要望、期待しているのです。

あなたの言っている、「白鳳の品格」ですが、

横綱というものは、
勝ち方、
負け方、
表情、
しぐさ、
態度、
目つき
立ち姿、
歩き方、
他人との接し方、
インタヴューなどの受け答え、

公私、24時間、「品をもって、カッコよくないといけないのです」

ひっぱたいたり、肘で、首を押したり、
こういう過去いいとは言えない勝ち方を、
一生に、数回とか、一年に、一度なら、

誰も、批判はしないjのです。


あとは、言動、これは、知識、教養が、ないうちに、日本にきて、

しかも、相撲に忙しく、
学業も、
常識も、
個人的な勉強なども、

不十分な感じで、成長し、
横綱になってしまったから、
「真の意味での、品格」
「エレガント」
「「横綱らしさ」




などというものが、

知らない
現況したこともない、
誰も、教えてくれなかった

などの理由で、
今現在が、あるのが、白鵬です。





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日本の相撲は「国技で神事で品格あり」?

5/23(水) 16:53配信
ニューズウィーク日本版
スキャンダルまみれの角界は日本人男性の弱さの表れ
89年に来日した南モンゴル出身の私には、かれこれ28年にわたる「相撲言説観察史」、という自慢にもならない経歴がある。

パックン、「忖度の国」日本のお笑いを本音で語る

大相撲をめぐる日本での意見を見聞きして、ずっと抱いてきた違和感が3つある。「国技であること」「神事であること」「力士には品格が必要であること」だ。この3つの要素は日本人ファン層、主として男性ファンのあつい愛国心をくすぐってきた。今や「相撲ナショナリズム」の奔流になりつつある様相すら見せている。

まず、相撲を国技だと定義しておくと、「日本人」しかなし得ない競技がある、という枠組みがつくられてしまう。裸の人間同士が体をぶつけて競い、勝負を決めて周りを喜ばせる興行は人類の誕生とともに、世界各地で同時多発的に現れた。今ではどこが発祥の地かを探し、特定するのも無意味に近い。

ユーラシアでは既に、紀元前8世紀~前3世紀に活躍した遊牧民スキタイが青銅器に相撲の文様を刻んでいた。また、10世紀頃に栄えた遼王朝のモンゴル系契キ丹タイ人の格闘技が日本に伝わって大相撲になったという学説もある。それでも、「モンゴル高原が相撲発祥の地」と自慢するモンゴル人はほとんどいない。人類共通の興行だからこそ、大相撲にもモンゴル相撲にも似たような技芸があり、モンゴル人力士はそれを遺伝子のように駆使できるので強いというだけだ。わざわざ近代国家の枠組みに縛られて、「国技」性を強調する必要があるのだろうか。

次に、「神事」について見てみよう。日本の相撲が独自に進化を遂げたことは事実だが、モンゴルも例外ではない。私の専門である文化人類学に即して言えば、本来の神事とは宮中の秘儀か、神の前での行いを指す。神社での土俵入りをもって神事とする大相撲同様、モンゴル相撲も寺院や聖地での清めとみそぎを必要とする。

ルールが複雑となり制度化し、力士の地位が高くなり、国家や宗教界との結び付きが強いのも日本とモンゴルの相撲に共通した特徴と言える。世界中にあったさまざまな興行も近代国民国家の成立に伴ってスポーツに姿を変えたが、生来持っていた宗教的要素は消え去らなかった。

現にアフリカのサッカーチームには呪術師がいる場合が多い。試合前に相手が負けるよう、公然とグラウンドで呪いをかける風景はワールドカップが日本で開催されたときにも見られた。キリスト教徒の選手は十字を切り、イスラム教徒はコーランの一節を唱える



品格論はナショナリズムの土壌
神に頼って勝ちたいし、勝って神を喜ばせたい──。それが興行=スポーツの目的なのだ。何も大相撲だけが神事で、他のスポーツより一段と神聖なわけではない。

<しきたりにとらわれない女性客>

最後は「品格」の問題だ。近代に入って、興行がスポーツにつくり替えられたときから、選手は「国民の模範」と位置付けられた。国民もまた「優秀なスポーツ選手」のように体を強健にし、国家のために奉仕しなければならないという政治的神話だ。ただ、果たして国民全体の模範を務められるスポーツ選手などどれほどいるのだろうか。

そもそも品格という言葉自体が、90年代にバブルが崩壊し経済が停滞するなかで、日本人が進むべき方向を見失った頃からはやり出したものではないか。「女性の品格」どころか、「国家の品格」までもが問われるようになった。

こうした流行は女性の社会進出が進み、古い縛りが意味を持たなくなったときに男性から発せられた「保守の声」ではないのか。「国家の品格」もまた、欧米化を極端に進めた結果を反省しようと出現した思想にすぎない。

相撲で気になるのは、「力士が『国技』『神事』の本質が分かっていないので、品格に問題がある」という見方だ。こうした品格論を否定する必要はないが、それが「日本人だけは特別」「日本人のみが優れている」のような発言になると、それこそがナショナリズムの土壌になっているのではないか、と懸念したくなる。

いわゆる「品格ある女性」も、男性の理想像でしかない。今やそんな理想にとらわれず、古いしきたりに縛られない女性のほうが力士の品格など気にせず、楽しく相撲を観戦している。

日本で相撲を取れば成功する、というジャパンドリームは世界に広がっている。モンゴルから始まり、琴欧洲と把瑠都の故郷ヨーロッパ、そして栃ノ心の母国は中央ユーラシアのジョージア(グルジア)。まさに東西を超えて日本の相撲界が注目されている。ただし誰も日本風の神事に従事し、日本風の品格を実践したいからではない。皆、日本の宗教信仰に敬意を払い、日本の礼儀正しさを称賛しながら、スポーツを楽しみ、豊かになりたいだけだ。

どうすれば、「相撲ナショナリズム」が収まるのだろうか。「日本人力士が強くならないといけないだろう」と、先日会ったモンゴルのある遊牧民が話していた。品格ある日本人男性には耳が痛いかもしれないが、これこそが相撲に求められていることだろう。


<本誌2018年5月15日号【特集:「日本すごい」に異議あり!】から転載>
楊海英(本誌コラムニスト)


最終更新:5/23(水) 16:53
ニューズウィーク日本版