「創価学会はなぜ嫌われるのか」というのが、本稿のタイトルである。そこでは、創価学会が嫌われているということが前提になっている。確かに、世の中には創価学会のことを嫌う人たちがいる。忌み嫌い、創価学会などなくなってしまえばいいと考えている人がいることは事実だ。
しかし、そうした創価学会に対する嫌悪感は、昔に比べればはるかに弱くなっているようにも思われる。
3年ほど前の秋のことである。私は講演をするために、広島県の三次(みよし)市を訪れた。
そのときは、最近の葬儀のあり方について地元の浄土真宗の人たちに話をしたのだが、送り迎えをしてくれた僧侶の人から興味深い話を聞いた。
昔は、創価学会といえば、地元で嫌われる存在だった。ところが最近では、学会の会員たちをいい人たちと言う人が増えているというのである。
浄土真宗の場合、日本の仏教宗派の中でも信仰に対して特に自覚的で、しかも、社会の支配階層ではなく、一般民衆に基盤を置いているため、創価学会とは対立する関係になり、創価学会批判にも積極的だった。
■ 攻撃的でなくなった創価学会の勧誘
ところが最近の創価学会の会員は、昔とは異なり、地域に溶け込もうとして、ほかの人たちが嫌がるPTAや町内会の役員などを積極的に引き受けてくれる。しかも、地域のために活動する代わりに布教活動をやったりはしない。だから地域の人たちも、創価学会の会員たちはいい人たちだと認識するようになってきているというのである。
広島は、「安芸門徒」という言葉があるように、伝統的に浄土真宗の信仰が強い地域である。にもかかわらず、住民の間で、創価学会に対する好き嫌いの気持ちが変わったことは大きい。おそらくそれはほかの地域でも起こっていることだろう。その点では、創価学会は嫌われなくなった。あるいは、正確にいえば昔ほど嫌われなくなっているのである。
しかし、そうした創価学会に対する嫌悪感は、昔に比べればはるかに弱くなっているようにも思われる。
3年ほど前の秋のことである。私は講演をするために、広島県の三次(みよし)市を訪れた。
そのときは、最近の葬儀のあり方について地元の浄土真宗の人たちに話をしたのだが、送り迎えをしてくれた僧侶の人から興味深い話を聞いた。
昔は、創価学会といえば、地元で嫌われる存在だった。ところが最近では、学会の会員たちをいい人たちと言う人が増えているというのである。
浄土真宗の場合、日本の仏教宗派の中でも信仰に対して特に自覚的で、しかも、社会の支配階層ではなく、一般民衆に基盤を置いているため、創価学会とは対立する関係になり、創価学会批判にも積極的だった。
■ 攻撃的でなくなった創価学会の勧誘
ところが最近の創価学会の会員は、昔とは異なり、地域に溶け込もうとして、ほかの人たちが嫌がるPTAや町内会の役員などを積極的に引き受けてくれる。しかも、地域のために活動する代わりに布教活動をやったりはしない。だから地域の人たちも、創価学会の会員たちはいい人たちだと認識するようになってきているというのである。
広島は、「安芸門徒」という言葉があるように、伝統的に浄土真宗の信仰が強い地域である。にもかかわらず、住民の間で、創価学会に対する好き嫌いの気持ちが変わったことは大きい。おそらくそれはほかの地域でも起こっていることだろう。その点では、創価学会は嫌われなくなった。あるいは、正確にいえば昔ほど嫌われなくなっているのである。
昔の創価学会は、現在とは比べられないほど攻撃的な姿勢を示していた。布教活動は「折伏(しゃくぶく)」と呼ばれ、相手を論破して、無理やり信仰を押し付けるというやり方が取られた。
家に地域の創価学会の会員が幾人も押しかけてきて、延々と折伏が続くようなこともあった。
それは、家庭だけではなく、ほかの宗教や宗派の宗教施設にも及んだ。キリスト教の教会に学会員がやってきて、イエス・キリストが復活するなど非科学的で、キリスト教の信仰は間違っていると議論を吹っかけてきたのである。
それまでの日本の新宗教(明治以後に成立した宗教)は、人が何か不幸や悩みに直面したとき、当人が自分の考え方を変えて、それを介して相手の気持ちも変えようというやり方を取っていた。
ところが創価学会には、そうした面はまったく見られなかった。何か問題が起きても、その解決策は相手を折伏することにあり、自分を反省する様子などみじんも見せなかった。
子どもたちの場合にも、当時の創価学会が密接な関係を持っていた日蓮宗の一派・日蓮正宗が、ほかの宗教や宗派の信仰をいっさい認めないという姿勢を取ったため、創価学会の家庭の子女は、修学旅行に行っても、神社の鳥居さえくぐらなかった。いくら言っても、それは「謗法(ほうぼう)」(間違った信仰)だと言って取り合わない。そうした信仰上のかたくなさも、創価学会が嫌われる原因だった。
もっともそこには、日本人一般の宗教観も影響していた。日本人は、多くが自分は無宗教だと考えているが、神社に行けば鳥居をくぐって参拝し、死ねば仏教式で葬儀を挙げる。そうしたやり方をするのが世間の常識だと考えていて、それに抵抗する人間は偏屈で間違っていると考え、時にはそれを攻撃する。
無宗教を標榜する一般の日本人と創価学会の会員との対立も、その点では、異なる宗教観に基づくものであり、そこでは小さな「宗教戦争」が起こっていたと見ることができる。創価学会の会員が嫌われるような態度を取ったということもあるが、一般の日本人が、一定の信仰を持ちつつ、それに無自覚だったことも、対立を激化することに結び付いた。
■ 増幅された池田氏の悪のイメージ
創価学会が激しい嫌悪の対象になっていた時代において、池田大作という存在は極めて大きかった。
池田氏は、創価学会の第3代会長であり、会長を退いてからは名誉会長の地位にある。
池田氏が創価学会の会長に就任したのは、わずか32歳だった。60年安保の年のことである。
家に地域の創価学会の会員が幾人も押しかけてきて、延々と折伏が続くようなこともあった。
それは、家庭だけではなく、ほかの宗教や宗派の宗教施設にも及んだ。キリスト教の教会に学会員がやってきて、イエス・キリストが復活するなど非科学的で、キリスト教の信仰は間違っていると議論を吹っかけてきたのである。
それまでの日本の新宗教(明治以後に成立した宗教)は、人が何か不幸や悩みに直面したとき、当人が自分の考え方を変えて、それを介して相手の気持ちも変えようというやり方を取っていた。
ところが創価学会には、そうした面はまったく見られなかった。何か問題が起きても、その解決策は相手を折伏することにあり、自分を反省する様子などみじんも見せなかった。
子どもたちの場合にも、当時の創価学会が密接な関係を持っていた日蓮宗の一派・日蓮正宗が、ほかの宗教や宗派の信仰をいっさい認めないという姿勢を取ったため、創価学会の家庭の子女は、修学旅行に行っても、神社の鳥居さえくぐらなかった。いくら言っても、それは「謗法(ほうぼう)」(間違った信仰)だと言って取り合わない。そうした信仰上のかたくなさも、創価学会が嫌われる原因だった。
もっともそこには、日本人一般の宗教観も影響していた。日本人は、多くが自分は無宗教だと考えているが、神社に行けば鳥居をくぐって参拝し、死ねば仏教式で葬儀を挙げる。そうしたやり方をするのが世間の常識だと考えていて、それに抵抗する人間は偏屈で間違っていると考え、時にはそれを攻撃する。
無宗教を標榜する一般の日本人と創価学会の会員との対立も、その点では、異なる宗教観に基づくものであり、そこでは小さな「宗教戦争」が起こっていたと見ることができる。創価学会の会員が嫌われるような態度を取ったということもあるが、一般の日本人が、一定の信仰を持ちつつ、それに無自覚だったことも、対立を激化することに結び付いた。
■ 増幅された池田氏の悪のイメージ
創価学会が激しい嫌悪の対象になっていた時代において、池田大作という存在は極めて大きかった。
池田氏は、創価学会の第3代会長であり、会長を退いてからは名誉会長の地位にある。
池田氏が創価学会の会長に就任したのは、わずか32歳だった。60年安保の年のことである。
なぜそれほどの若さで、すでに巨大教団に発展していた創価学会の会長に就任できたのか。部外者には不思議に思えるかもしれないが、確かに池田氏には集団を率いるリーダーとしての素質が備わっていた。
■ 「創価学会恐るべし」という印象の背景
それは、創価学会が参議院に初めて立候補者を立てた大阪での選挙の際にも表れていた。彼は、ずっと大阪に泊まり込んで、陣頭指揮に当たった。選挙で多くの票を獲得することは、会員を増やすということでもあり、池田氏は大阪で創価学会の基盤を確立するのに大きく貢献した。その後も、池田氏の大阪訪問は250回以上に及び、絶大な影響力を持ってきた。
創価学会が政界に進出する直前の1955年、北海道の小樽で行われた創価学会と日蓮宗との間の法論では、池田氏が創価学会側の司会を務めた。その法論では判定を下す第三者が不在だったにもかかわらず、池田氏は、最後に司会者の特権として創価学会が勝利したと言い放ったため、創価学会が法論に勝ったというイメージが作り上げられた。それは、「創価学会恐るべし」という印象を日蓮宗のみならず、宗教界全体に与えたのだった。
しかし池田氏の果たした役割は、創価学会の会員ではない一般の人間は知らない。そのため、池田氏は巨大教団に君臨する独裁者であるかのようにとらえられてしまう。
実際、それを裏づけるような報道が、週刊誌などを中心に集中的に行われたことがあった。それは、創価学会と公明党が、自分たちを批判した書物に対してその出版を妨害しようとする「言論出版妨害事件」が起こってからである。この事件は、69年から70年にかけての出来事だった。創価学会が、公明党を組織して政界に進出していなければ、こうした報道もそれほど盛んには行われなかったであろう。
それに関連してもう一つ重要な点は、創価学会を辞めた人間たちの存在である。宗教教団を辞めた人間は、その組織に対して不満を持ったからそうした行動に出たわけで、辞めた教団に対しては批判的である。
さらに、創価学会の元会員には、多額の寄進をしていた人間たちが少なくなかった。創価学会は、日蓮正宗の総本山・大石寺に正本堂という建物を建てるために寄進を募るなど、会員から多くの金集めを行ってきた。機関紙である聖教新聞を何部も購読し、それを会員以外に届けていた会員もいた。私の知り合いでも、創価学会に数千万円を寄進したという元会員がいる。
■ 「創価学会恐るべし」という印象の背景
それは、創価学会が参議院に初めて立候補者を立てた大阪での選挙の際にも表れていた。彼は、ずっと大阪に泊まり込んで、陣頭指揮に当たった。選挙で多くの票を獲得することは、会員を増やすということでもあり、池田氏は大阪で創価学会の基盤を確立するのに大きく貢献した。その後も、池田氏の大阪訪問は250回以上に及び、絶大な影響力を持ってきた。
創価学会が政界に進出する直前の1955年、北海道の小樽で行われた創価学会と日蓮宗との間の法論では、池田氏が創価学会側の司会を務めた。その法論では判定を下す第三者が不在だったにもかかわらず、池田氏は、最後に司会者の特権として創価学会が勝利したと言い放ったため、創価学会が法論に勝ったというイメージが作り上げられた。それは、「創価学会恐るべし」という印象を日蓮宗のみならず、宗教界全体に与えたのだった。
しかし池田氏の果たした役割は、創価学会の会員ではない一般の人間は知らない。そのため、池田氏は巨大教団に君臨する独裁者であるかのようにとらえられてしまう。
実際、それを裏づけるような報道が、週刊誌などを中心に集中的に行われたことがあった。それは、創価学会と公明党が、自分たちを批判した書物に対してその出版を妨害しようとする「言論出版妨害事件」が起こってからである。この事件は、69年から70年にかけての出来事だった。創価学会が、公明党を組織して政界に進出していなければ、こうした報道もそれほど盛んには行われなかったであろう。
それに関連してもう一つ重要な点は、創価学会を辞めた人間たちの存在である。宗教教団を辞めた人間は、その組織に対して不満を持ったからそうした行動に出たわけで、辞めた教団に対しては批判的である。
さらに、創価学会の元会員には、多額の寄進をしていた人間たちが少なくなかった。創価学会は、日蓮正宗の総本山・大石寺に正本堂という建物を建てるために寄進を募るなど、会員から多くの金集めを行ってきた。機関紙である聖教新聞を何部も購読し、それを会員以外に届けていた会員もいた。私の知り合いでも、創価学会に数千万円を寄進したという元会員がいる。
金(かね)にまつわる恨みほど恐ろしいものはないともいえるが、さらに彼らは、辞めるときに強い引き留め工作を受けたり、辞めてからかつての仲間に誹謗中傷されたりすることもあった。そのため、恨みはさらに増し、内情を暴露したり、池田氏を激しく批判したりして、そうした声が週刊誌に掲載されたりした。
世の中に伝えられる創価学会のイメージは、相当に恐ろしい教団というものであった。そうした時代がかなり長く続くことで、創価学会を嫌う人間が増えていった。
逆に、一般の人間にとって創価学会が存在するメリットは少ない。ただ、会員でなくても選挙の際には公明党に投票する「フレンド票」となれば、友好的に接してくれるし、何か困ったことがあれば公明党の地方議員が相談に乗ってくれたりする。
そうした手段を利用する非会員もいたが、その恩恵にあずからない人間からすれば、それもまた創価学会を嫌う理由になった。外側からは、自分たちの利益だけを追求する極めて利己的な集団に見えたのである。
ただ、こうしたことは、ほとんどが過去のことになった。創価学会が伸びている時代には、多額の金を布教活動に費やす人間が出たが、今はそうした雰囲気はない。多くは、生まれたときから会員になっている信仰2世や3世である。
■ 連立政権入りで安定性が強化された
折伏は影を潜め、新しく会員になるのは、会員の家の赤ん坊ばかりである。聖教新聞には、かつては敵対する勢力や裏切り者を罵倒する言葉があふれていたが、今はそれもない。
公明党が自民党と連立政権を組んでいることも大きい。創価学会は、それを通して、日本社会に安定した地位を築いた。ことさら社会と対立するような状況ではなくなったのである。
週刊誌などが、創価学会にまつわるスキャンダルを暴くこともほとんどなくなった。池田氏も高齢で、その言動が世間をにぎわすこともない。
現在では、一般の日本人が創価学会を嫌わなければならない理由はなくなった。だからこそ、冒頭で述べたように、創価学会の人たちはいい人たちだという声が上がるのである。
しかし、世間から嫌われなくなった創価学会は、宗教教団としての活力を失ったともいえる。会員の伸びは止まり、公明党の得票数も選挙をやるたびに減りつつある。週刊誌が取り上げないのも、記事にしても読者の関心を呼ばないからだ。
はたしてそれが創価学会にとって好ましいことなのか。今、学会の組織はそうしたジレンマに直面している。嫌われてこそ、本来の創価学会なのかもしれないのである。
世の中に伝えられる創価学会のイメージは、相当に恐ろしい教団というものであった。そうした時代がかなり長く続くことで、創価学会を嫌う人間が増えていった。
逆に、一般の人間にとって創価学会が存在するメリットは少ない。ただ、会員でなくても選挙の際には公明党に投票する「フレンド票」となれば、友好的に接してくれるし、何か困ったことがあれば公明党の地方議員が相談に乗ってくれたりする。
そうした手段を利用する非会員もいたが、その恩恵にあずからない人間からすれば、それもまた創価学会を嫌う理由になった。外側からは、自分たちの利益だけを追求する極めて利己的な集団に見えたのである。
ただ、こうしたことは、ほとんどが過去のことになった。創価学会が伸びている時代には、多額の金を布教活動に費やす人間が出たが、今はそうした雰囲気はない。多くは、生まれたときから会員になっている信仰2世や3世である。
■ 連立政権入りで安定性が強化された
折伏は影を潜め、新しく会員になるのは、会員の家の赤ん坊ばかりである。聖教新聞には、かつては敵対する勢力や裏切り者を罵倒する言葉があふれていたが、今はそれもない。
公明党が自民党と連立政権を組んでいることも大きい。創価学会は、それを通して、日本社会に安定した地位を築いた。ことさら社会と対立するような状況ではなくなったのである。
週刊誌などが、創価学会にまつわるスキャンダルを暴くこともほとんどなくなった。池田氏も高齢で、その言動が世間をにぎわすこともない。
現在では、一般の日本人が創価学会を嫌わなければならない理由はなくなった。だからこそ、冒頭で述べたように、創価学会の人たちはいい人たちだという声が上がるのである。
しかし、世間から嫌われなくなった創価学会は、宗教教団としての活力を失ったともいえる。会員の伸びは止まり、公明党の得票数も選挙をやるたびに減りつつある。週刊誌が取り上げないのも、記事にしても読者の関心を呼ばないからだ。
はたしてそれが創価学会にとって好ましいことなのか。今、学会の組織はそうしたジレンマに直面している。嫌われてこそ、本来の創価学会なのかもしれないのである。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160412-00111672-toyo-bus_all&p=3
(「週刊東洋経済」2015年9月26日号を転載)
※本記事を含む週刊東洋経済eビジネス新書「公明党、創価学会よどこへ行く」も発売中です
(「週刊東洋経済」2015年9月26日号を転載)
※本記事を含む週刊東洋経済eビジネス新書「公明党、創価学会よどこへ行く」も発売中です
島田 裕巳