サントリーのトートバッグのデザインの元ネタが割れてしまった以上、著作の独立性を主張するのはもはや無理。これ以上、無理を重ねると、損害額が拡大し、偽ブランド品のように廃棄処分しなければならなくなるゴミが増えるばかり。そして、最後には、だれかが責任を取って、クビを吊らなければならなくなってしまう。/
もう止めた方がいいって。小保方と同じ道を辿っている。審査員たちも、政治家や役人たちも、奈落へ道連れになるぞ。ゴリ押しを続ければ、それだけ関連支出が拡大し、いよいよ取り返しのつかないことになるぞ。
ただでさえ記者会見が手遅れなのに、そこで変なアルファベット表なんか出してきて、あれは逆に、プロのデザイナーとしての「実験ノート」に相当するものが無い、ということを自白してしまっているようなもの。本来なら、こういう構想スケッチとか、こういうコンストラクションの試行錯誤段階のものが大量にあるはず。それで、発想の経緯をきちんと示せれば、少なくとも盗作の疑いは晴れたはず
商標がどうであれ、著作権は、ベルヌ条約によって無方式主義、つまりなんの登録も無しに、ただ創作しただけで、その時点に発生している。ただ、著作権に基づいて権利侵害を主張するには、類似性だけでなく、依拠性(パクったやつが自分の作品を知っていたということ)を立証しなければならない。その立証責任は、原告側にある。たとえネットで知りえた、としても、相手が知っていたという事実を証明するのは、なにぶんにも相手の側に経緯の資料がある以上、かなり困難だ。(へたに自分の構想スケッチを出すと、その画像から、知っていたということを証明してしまう(知っていたということにされてしまう)危険性があるので、記者会見で、それがあるにもかかわらず、それを出すのを弁護士に止められたのだろうか。)
ただし、この依拠性は、間接事実からの推認でも十分とされている。すなわち、①知りえた可能性、②類似性以上の酷似性、③オリジナルの周知性、の3点が証明できれば、依拠した、ということになる。逆に、弁護側は、①絶対に知りえなかった、②それほど似ていない、③それほど有名じゃない、と抗弁することで、独立創作としての別個の著作権の存在を証明する。
当初、この線でいける、勝てる、弱小国ベルギーの田舎町の工業デザイナー上がりなんぞ、仕切役で世界を股に掛ける日本の広告代理店の力と、発注元で国際的一大イベントであるオリンピックの威光、そして、泣く子も黙る内閣官房知的財産戦略推進事務局とノートリアスな経産省商務情報政策局の兄の威信に懸けて、元総理のラグビー仲間よろしくタッグを組んで捻り潰してやる、とでも考えたのだろうが、サントリーのトートバッグの一件で、このデザイナーがpinterest、その他、ネットのかなり奥深いところから巧妙に素材を拾ってきていることが完全に明らかになってしまった。これまた、①知りえた可能性、というだけでなく、実際にネットで知った事実性がかなり高い、ということを自分で立証してしまったようなもの。おまけに、②酷似どころかまんまコピペの常習犯、となると、当該エンブレムに関してのみ、似ていない、関係が無い、などと主張する方がもはや難しい。こんなのひとつを守るために、どこぞの外国のチンケなゆうえんち並みのいいわけで、日本の輸出産業やコンテンツ産業の信用全体まで危険にさらす、などというのは、あまりバカげている。なにより、あまりにみっともない。
(そのほか、ニーチェの独文の警句を英文で引用して、名前の綴りがコピー元のままに間違っていたり、革装幀の横書の洋本が右開きなうえに、ペーパーバックのように背が内側にそっくり返っていたり、よくまあ、こんな粗雑なデザインでカネを取っているものだ、と感心した。世界から洋酒の輸入をしているサントリーなら、外国文化に親しんでいる者もいるだろうに、だれか事前に指摘してやる者は、ひとりもいなかったのか? ついでながら、スイカの種は皮の周辺には無いし、ロングのままクロールで泳ぐ女性もいない。芸術系なら大学以前に、現実の物事を自分自身の目で直接に見る、ということを徹底的に教え込まれてきているはずなのだが。)
いくらいま商標権がこっちにあったって、それに自分たちの著作権が無ければ、商標権は取り消しになる。これ以上は、もう無理だ。日々刻々、国家予算を使って、損害額が果てしなく拡大していく。そうなったら、取り返しがつかない。著作権違反のものなど、偽ブランド品と同様、すべて破棄処分しないといけなくなる。すべてがゴミになる。こうなると、だれかが責任をとって首を吊るしかなくなる。新国立競技場と同様、早く政治的決断をしないと、いよいよ収拾がつかなくなる。(たとえ原告を黙らせても、たとえ裁判で勝っても、これだけ他にネタが出てしまっている以上、よけい日本政府の政治的圧力の悪いウワサが国内外に広まるだけ。まして負けたら救いようがない。もはや両詰まりのチェックメイトだ。だから、へたに白黒をつけようとせず、みずから「潔く」手をひいてしまって、あいまいなまま手うちにしたほうが、今後のためにも賢明というもの。)
日本の名誉をかけたイベント。1964年の東京オリンピック、70年の大阪万博、72年の札幌冬季オリンピック、そして、98年の長野オリンピック。Simple、Elegant、Sophisticated というデザインの3要素において、後世にまで高く評価されるエンブレムのデザインを、日本は世界に披露してきた。にもかかわらず、今回のドタバタは、それだけでも、あまりに見苦しい。似ている、などと、他国から物言いがついた時点で、このデザインはケガれている。事実として盗作であるかどうかはともかく、盗作を疑われていること自体が、許されざるハジだ。瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず、みずから身を律してこそ、日本のプライド。「日本人」は、ケガレを嫌い、ハジを嫌うのだ。ましてオリンピックは、フェアプレイの場。ケガれたもの、ハジであるものは、オリンピック、パラリンピックという人類の祭典、日本のハレの舞台にあってはならない。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

