モラハラ夫から一刻早く逃れたかったのだが
本誌『SuitsWOMAN』春号でも大反響があった「貧困女子」。これは、あるきっかけまでは、自宅があり、健康的な生活を送っていたのに、ちょっとしたきっかけから、明日食べるものも困るような貧困生活を送ることになってしまった女性たちの体験談を紹介しています。
ここでは、本誌では語れなかった、女性たちの生活と人生について詳しくレポートしていきます。
「1年前までは東京・田園調布の一軒家に住んいたんですが、今は台東区のシェアハウス暮らしです。きっかけは私の無計画な離婚ですね」
そう語る矢田愛子さん(37歳)は、絶望的とも諦めがいいとも言える顔で言います。
「出身は埼玉県越谷市。父親は会社員、母親は専業主婦という家庭で育ちました。有名商社に勤務する父は、会社で嫌なことがあると母に暴力をふるっていました。その後、ふたりはHをするんです。で、朝起きると両親の中が強烈に悪い。母から妹と私は“お前たちさえいなければ、あの男(父)と離婚できるのに”と母から言われ続けて18歳まで過ごしました」
高校卒業後、日本大学に進学。東京都大田区・糀谷にある母親の実家である祖母の家から通う。
「一刻も早く家から出たくて。あんなに離婚できないのは子どものせい、と言っていたのに、母も父も離婚の気配さえありません。18歳で家を出てから20年間、数回程度しか実家に帰っていません。行けば両親が壮絶なケンカしていると思うと、足が遠のきますね。今でも、親に会うと体調が悪くなるんです。離婚してから2年間シェアハウス生活をしている、と言うと“実家に帰ればいいじゃない”と言われるのですが、帰っても受け入れてくれる実家がある人は、それだけで恵まれていると思います。私が帰ったらまた、離婚するような娘に育った責任のなすりつけ合いが始まり、私も怒鳴られるにきまってますから」
矢田さんは就職活動時、100社ほどにエントリーシートを送るも、落とされる。その後、大学を卒業しても就職は思うようにいかず、派遣社員として13年間、さまざまな会社を渡り歩く。30歳のときに祖母が死去。祖母が亡くなったら自分のモノになると思っていたら、まさかの借家。そこで、家賃7万円の品川区・旗の台の1Kのマンションに住む。そして、35歳のときに医療機器メーカーで、元夫となる人と出会い、結婚する。
「私より10歳年上のバツイチで、45歳。一流大学卒で、年収は1000万円。交際半年間はとても優しくて。田園調布のはずれに持ち家があって、アパートを所有していていい結婚相手だったんです。はたから見たらセレブ妻のはしくれだったでしょうね。結婚当初はクレジットの家族カードを与えられ、ベンツで高級スーパーに乗りつけていたのですから。値段を見ないで好物のイチゴやマンゴー、マスカット、さくらんぼなどを買える、という人生で初めての経験をしました。近所に住んでいる元夫の両親もうるさくないし、働かなくてもいいと言うし、いいことだらけでした。結婚式は親族だけでささやかにパーティしました。このときはウチの両親もケンカしなかったですね」
しかし相手は矢田愛子さんを束縛する、モラハラ男だった。
「メールもケータイもすべて見られて、友達と遊びに行っているときは30分おきに電話がかかってきて。最初は“愛されているのかも?”と思っていましたが、ただ自分のコントロール下に置きたいということだけ。 一度、ケータイの電源を切ってしまったことがあって、帰宅したら水をぶっかけられ、家族カードも没収されました。私が言うことを聞かないと生活費もくれないし、それなのに夕飯ができていないと怒られるから、派遣時代に貯めた200万円の貯金を使いました。あれがなかったら、どうなっていたんだろう……」
子どもが欲しいと言われ、何回かトライしたのですが、なかなか授からなかった。
「元夫の両親から体外受精も打診されました。でも、夫は自然妊娠にこだわり、それでもなかなか授からず、そのことはすべて私の年齢にされ、夫の両親と3人がかりで責められ続けた翌日、離婚届を置いて家を出たんです。パソコン、充電器、服など身の回りのモノに加えて、年金手帳、健康保険証、貯金通帳、そして生理ナプキンを持って出たことを覚えています」
そこで行ったのは渋谷のネットカフェ。
「1年半の結婚生活から解放されて自由だ! とすごく幸せな気持ちになったことを覚えていますが、所持金50万円では家も借りられず。高校時代の友達の家に居候しながら就職活動し、2週間ほどであるアパレルメーカーに就職しました。一般職だったので、給料は手取り13万円。どんなにがんばっても“派遣社員でしょ”と言われるキャリア人生を終わらせたく、正社員にこだわりました。そのとき、夫からはぷっつりと連絡がなくなり、不安になって戸籍を見に行ったら、離婚届けを出されていました。私は子どもをつくる要員にすぎなかったんだな…と」
さらに矢田さんの苦労は続きます。
ここでは、本誌では語れなかった、女性たちの生活と人生について詳しくレポートしていきます。
「1年前までは東京・田園調布の一軒家に住んいたんですが、今は台東区のシェアハウス暮らしです。きっかけは私の無計画な離婚ですね」
そう語る矢田愛子さん(37歳)は、絶望的とも諦めがいいとも言える顔で言います。
「出身は埼玉県越谷市。父親は会社員、母親は専業主婦という家庭で育ちました。有名商社に勤務する父は、会社で嫌なことがあると母に暴力をふるっていました。その後、ふたりはHをするんです。で、朝起きると両親の中が強烈に悪い。母から妹と私は“お前たちさえいなければ、あの男(父)と離婚できるのに”と母から言われ続けて18歳まで過ごしました」
高校卒業後、日本大学に進学。東京都大田区・糀谷にある母親の実家である祖母の家から通う。
「一刻も早く家から出たくて。あんなに離婚できないのは子どものせい、と言っていたのに、母も父も離婚の気配さえありません。18歳で家を出てから20年間、数回程度しか実家に帰っていません。行けば両親が壮絶なケンカしていると思うと、足が遠のきますね。今でも、親に会うと体調が悪くなるんです。離婚してから2年間シェアハウス生活をしている、と言うと“実家に帰ればいいじゃない”と言われるのですが、帰っても受け入れてくれる実家がある人は、それだけで恵まれていると思います。私が帰ったらまた、離婚するような娘に育った責任のなすりつけ合いが始まり、私も怒鳴られるにきまってますから」
矢田さんは就職活動時、100社ほどにエントリーシートを送るも、落とされる。その後、大学を卒業しても就職は思うようにいかず、派遣社員として13年間、さまざまな会社を渡り歩く。30歳のときに祖母が死去。祖母が亡くなったら自分のモノになると思っていたら、まさかの借家。そこで、家賃7万円の品川区・旗の台の1Kのマンションに住む。そして、35歳のときに医療機器メーカーで、元夫となる人と出会い、結婚する。
「私より10歳年上のバツイチで、45歳。一流大学卒で、年収は1000万円。交際半年間はとても優しくて。田園調布のはずれに持ち家があって、アパートを所有していていい結婚相手だったんです。はたから見たらセレブ妻のはしくれだったでしょうね。結婚当初はクレジットの家族カードを与えられ、ベンツで高級スーパーに乗りつけていたのですから。値段を見ないで好物のイチゴやマンゴー、マスカット、さくらんぼなどを買える、という人生で初めての経験をしました。近所に住んでいる元夫の両親もうるさくないし、働かなくてもいいと言うし、いいことだらけでした。結婚式は親族だけでささやかにパーティしました。このときはウチの両親もケンカしなかったですね」
しかし相手は矢田愛子さんを束縛する、モラハラ男だった。
「メールもケータイもすべて見られて、友達と遊びに行っているときは30分おきに電話がかかってきて。最初は“愛されているのかも?”と思っていましたが、ただ自分のコントロール下に置きたいということだけ。 一度、ケータイの電源を切ってしまったことがあって、帰宅したら水をぶっかけられ、家族カードも没収されました。私が言うことを聞かないと生活費もくれないし、それなのに夕飯ができていないと怒られるから、派遣時代に貯めた200万円の貯金を使いました。あれがなかったら、どうなっていたんだろう……」
子どもが欲しいと言われ、何回かトライしたのですが、なかなか授からなかった。
「元夫の両親から体外受精も打診されました。でも、夫は自然妊娠にこだわり、それでもなかなか授からず、そのことはすべて私の年齢にされ、夫の両親と3人がかりで責められ続けた翌日、離婚届を置いて家を出たんです。パソコン、充電器、服など身の回りのモノに加えて、年金手帳、健康保険証、貯金通帳、そして生理ナプキンを持って出たことを覚えています」
そこで行ったのは渋谷のネットカフェ。
「1年半の結婚生活から解放されて自由だ! とすごく幸せな気持ちになったことを覚えていますが、所持金50万円では家も借りられず。高校時代の友達の家に居候しながら就職活動し、2週間ほどであるアパレルメーカーに就職しました。一般職だったので、給料は手取り13万円。どんなにがんばっても“派遣社員でしょ”と言われるキャリア人生を終わらせたく、正社員にこだわりました。そのとき、夫からはぷっつりと連絡がなくなり、不安になって戸籍を見に行ったら、離婚届けを出されていました。私は子どもをつくる要員にすぎなかったんだな…と」
さらに矢田さんの苦労は続きます。
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