長野の善光寺では7年に1度の御開帳がこの5日から始まりました。御開帳は5月31日まで。報道によれば全国から参拝者で賑わっているようです。
※御開帳 寺院の秘仏を公開し一般に拝ませること。
本日はその話題の善光寺について語りましょう。
武田信玄(1521~1573)と上杉謙信(1530~1578)は長野の善光寺から南に数十キロの地、川中島で12年の間に5回の合戦を繰り広げています。
長野善光寺
上杉謙信(1530~1578)は大軍を率いてこの善光寺の地に集結しました。中でも、謙信の軍師・山本勘介が編み出した、第四回の啄木鳥(キツツキ)戦法の合戦が特に熾烈な合戦となりました。(永禄4年)
藁の謙信馬(善光寺)
この合戦で、山本勘介が壮烈な討ち死にをします。しかし、全五回の合戦でも信玄と謙信の決定的な雌雄は決しないままに終わります。
この第四回の合戦のとき、信玄は41歳、謙信32歳だとされています。謙信がほぼ一回り若かった訳です。
尚、善光寺は山梨の甲府にも有ります。
所在地 山梨県甲府市善光寺
山梨善光寺のマップ
甲斐善光寺の正面
甲斐善光寺の境内
甲斐善光寺成立の由来の碑
この甲斐善光寺の由来を見て頂けばお分かりの通り、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が川中島で激しく戦っていた当時に、信玄が信濃善光寺が戦火に遭うことを恐れて、ご本尊とか寺宝類を山梨の善光寺に移したわけです。
もちろん、武田氏滅亡後、ご本尊は織田・徳川・豊臣と転々としましたが慶長3年(1598)、信濃善光寺に帰座しました。