戦国時代の英雄、太閤秀吉。一介の足軽から太閤にまで成った古今東西稀にみる大出世の英雄ですが、この豊臣秀吉にも大きな泣き所が有りました。
それは、正室ねねとの間に子供をもうけることが出来なかったことでしょう。確かに晩年になって側室、淀君の間に、二人の男児をもうけましたが、一人は早世、二人目の男児秀頼は、秀吉が亡くなる六年前のことでした。
位人臣を極めた豊臣秀吉
豊臣家にとって、晩年に思いがけず子供を得たことは、後継ぎとして関白の位まで譲っていた豊臣秀次に言いがかりを付けて、高野山に追放。後に自害させることに成った事実をみると、決して喜ぶべきことでは無かったと思います。
豊臣秀次が予定通り、豊臣家の後継ぎに成っていたら、関ヶ原の合戦も大阪冬の陣、夏の陣も避けられたことでしょう。
秀吉は、自分の子供が出来るのを諦めていた時期が有ったようです。それを証明するのが、秀吉が積極的に養子をとっている事実です。
その養子の数は、男子七人、女子五人の養子が居たとされています。秀吉の実姉ともと三好吉房との間の子、秀次と秀勝。そうして、正室ねねの甥の秀秋。この三人は明らかに豊臣の後継ぎを目的の養子と見られます。
その他、人質的な養子も居ました。織田信長の四男の秀勝。宇喜多直家の嫡子である秀家。徳川家康の次男の秀康。
女子では、前田利家の娘の豪姫が有名です。淀君の妹の小江などがいました。
こうして見ますと、晩年に秀吉の子が出来たことは多くの養子が、その陰で犠牲になったことは明らかです。

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