★源義経の奥州逃避行 | 真空管のアナログ世界に魅せられて

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「温故知新」と言う言葉が有りますが、真空管は将にそんな存在だと思います。真空管を今では知る人も少なくなりましたが、デジタル全盛の今でも、真空管のアナログ技術を学び、真空管ラジオを楽しむ人は沢山います。私もその中の一人です。真空管を愛しむ想いで・・・・。

[源義経] ブログ村キーワード


これまでに、源義経の一の谷の合戦について書きました。(2010-4-19)今回は、その後の源義経に付いて書きます。

★神戸・須磨「一の谷の合戦」


義経は、壇ノ浦の戦い(1185年)で、平家一族を海の藻屑にした後、京都に凱旋。後白河上皇の信頼を得て、検非違使に任命されたり、左衛門少尉の官位を授けられたり、義経の生涯において得意の絶頂の時期を迎えました。


しかし、得意絶頂の時こそ魔が指すものです。これらの義経の任官、官位を授かるなどは、鎌倉の頼朝に伺いを立てることなく行なわれました。この辺は義経の脇の甘さが有りましたね。義経は武将としては優れていましたが政治家では無かったようです。


義経と「逆櫓の争い」以降、仲違いの関係に有り、義経を快く思わない軍監、梶原景時の讒訴により、この辺の事情が一部始終、鎌倉方に、筒抜けに成っていました。この結果、頼朝は義経を疎んずるようになります。


鎌倉市南西部の七里ガ浜沿いの腰越で、「腰越の状」を涙ながらに認め、頼朝に訴えますが許されず、弁慶など僅かの供と共に、奥州平泉に向け落ち延びることに成ります。


過ぎし日、義経の父源義朝が、平清盛との闘い(平治の乱 1159年)に破れ、逃走中に謀殺(1160年)されます。この結果、頼朝、範頼と共に、清盛に捕らえられた義経は、京都にて池の禅尼(清盛の継母)の口ぞえで命を助けられます。


その後、義経は京都の鞍馬寺に預けられますが、義経は密かに鞍馬寺から脱出、奥州平泉の藤原氏の庇護を受けます。


兄頼朝に疎んぜられた義経は、幼き頃に庇護をうけた奥州の覇者、藤原氏だったのです。奥州の京都と称される平泉は義経の第2の故郷だったのです。


思えば、平家方棟梁・平清盛の継母である池の禅尼が、源氏方の源頼朝、範頼、義経3兄弟の命を助けた慈悲は、結果として、平家の滅亡を速めたことに成ります。


真空管のアナログ世界に魅せられて-毛越寺

毛越寺(もうつうじ 岩手県平泉町)

平安時代の庭園を模す

藤原清衡・基衡が再興(850年)


さて、苦難の末、奥州平泉に安住の地を得たかに見えましたが、頼みの藤原秀衡が程なくして病死。秀衡の子、泰衡は鎌倉方の圧力に屈して、義経を衣川館に夜襲。義経は衣川館で自刃(1189年)したことになっています


ところが、義経は密かに逃れ、蝦夷(北海道)からモンゴル(蒙古)に渡り、成吉思汗」(チンギスハーン)に成ったとする、伝説が有ります。


これは、俗に言われる、「判官びいき」ですが、明治時代に、「義経は成吉思汗なり」なる論文まで発表する者まで現れ、日本歴史界に大論争が起こりました。


この辺りの、物語については、次の機会に語りたく思います。


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