先日、神奈川県の藤沢をゆるりと歩いて来ました。
藤沢は、東海道53次の一つですが、観光の目玉は江ノ島でしょう。
しかし、私はこの江ノ島を横目に、源義経ゆかりの神社を訪ねました。
ここで、源義経に触れておきましょう。
小柄で優しさを感じ、武将のイメージを感じない
義経は、源平の戦いで、ひよどり越えの闘いで平家を海に追いやり、
壇ノ浦で源氏の圧倒的勝利に終りました。
兵庫神戸電鉄
その後、藤沢まで凱旋しましたが、鎌倉の腹違いの兄、頼朝と対立、
涙ながら奥州の藤原氏を頼って、落ち延びましたね。
その間、愛しの京の白拍子・静御前との悲しい別れも有りました。
股肱の家臣・弁慶の懸命の働きも有って、何とか安住の地を奥州に得たかに見えましたが、やがて頼朝の奥州攻めで、義経は衣川館で討ち死にすることに成りました。
その首実検のため、義経の首は、美酒に漬けられ、この藤沢まで届けられましたが、兄頼朝はその首さえも鎌倉に入るを許さず、
已む無く、近くの川に無惨にも投げ捨てられました。
それを哀れみ、地もとの志ある村人により、拾い上げられ、
小さな祠が作られたのです。
この塚は、藤沢本町に在り、
ビルとビルの狭間にあります。
よほど注意深く探さないと分かりません。
俗に義経は、優れた武将であったが、政治家ではなかった。
反して頼朝は政治家であった、と評されますが頼朝は兄弟でありながら
実の弟にも非情の人で有ったわけですね。
私はこの祠の前で、暫し、考えに更けざるを得なかった次第です。
次回、再び、この義経の件を書きましょう。



