人間が生きて行くためには、
「 塩 」と「 水 」と「 食料 」 が必要です。
中でも、人間の最低限の生命維持には、
「 塩 」が一番大切でしょう。
戦国期の武将達は、塩を確保する為に苦労しました。
武田信玄などは、活動拠点が山に囲まれた甲州(山梨)
だった為に、塩が絶たれることは生命を絶たれる事だった。
信玄が塩を確保するためのルートは、甲州から日本海に
注ぐ糸魚川沿いだった。謙信が信玄に塩を送ったのも
この道だった。
このルートを 「 塩の道 」 と呼んでいた。
言い換えると、「 命の道 」とも言えるでしょう。
ところで、私は神奈川の鎌倉辺りに住みますが、
この鎌倉は三方を丘陵に囲まれ、南方が海に面している。
鎌倉の海の玄関 「由比ヶ浜」
前の小山は「稲村ヶ崎」
鎌倉を攻める新田義貞が宝剣を投げて
荒れる海を鎮めた故事が有る
私が考える所、源 頼朝がこの地に幕府を開いた理由は、
この鎌倉の地形が、「敵が攻め難く、守り易い」 地形だったからに違いない。
鎌倉は、自然の地の利を得た、
「大きな要塞」 だった。
鎌倉には、山を切り開いて造った「切通し」 と言われる人工の道が有ります。
「朝比奈の切り通し」を示す標識
その切通しは、全部で七つ有りました。
その一つが、
「朝比奈の切通し」 です。
この道は、夏でも涼しい
この切通しは、六浦(むつうら)に至る。六浦は鎌倉時代から、良質の塩を生産する地だった。この道から六浦の塩とか米麦を運び入れる道だった。
「朝比奈の切通し」は、鎌倉の 「塩の道」だった。
鎌倉を狙う敵は、この道を真っ先に襲ったに違いない。
しかし、鎌倉側も、そのことは十分認識していた。
幕府は、この道の整備は敢えて行なわず、敵の侵入を
困難にした。一方、警護を厳重にしたのだった。
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