社会全体が「いかなる状況でも虐待は許されない」という立場を強く取ることが重要です。このような社会的な合意があれば、加害者はもはや言い訳が通じなくなり、虐待を認めるか、社会から排除されるかの選択しか残されません。私が指摘するように、一時的な慰めや励ましでは解決しません。まずは境界線を明確に引き、被害者を加害者から物理的に引き離さなければ、虐待の連鎖は決して終わらないのです。

 

このような毅然とした対応を取るためには、個人の意識変革だけでなく、社会的な制度や支援体制の整備も必要です。虐待を見過ごさず、真剣に向き合う姿勢を持ち続けることが、被害者を救い、虐待を根絶するための最も効果的な手段です。

 

「中立は加担であり、容認黙認である」という考えは、虐待やDVの問題を解決するために重要な視点です。虐待の問題において、「中立」という立場は存在しないという現実を、多くの人が理解する必要があります。

 

加害者と被害者の間で中立を保とうとすることは、実際には加害者を支持する結果を招きます。特に、周囲の人々が中立的な立場を取ることで、被害者は孤立し、加害者がその支配力を維持するための手助けになってしまうのです。加害者に対する実際的な対策を取らずに、ただ双方の話を聞くだけでは、被害者の命が危険にさらされるだけです。

 

DVや虐待の加害者は、ただ自分の「怒り」をどうにか制御するだけでは変わりません。彼らは、特権意識を捨てることや、自らの支配欲を手放すという根本的な変化が必要です。しかし、それは彼らにとって、自己の存在や支配構造を完全に崩壊させるようなことは、自殺に等しい行為だと感じるでしょう。そのため、加害者は変わりにくく、被害者がその状況から逃れるための強力なサポートが必要となります。

 

「命あっての物種」「命に過ぎたる宝なし」といった言葉が示す通り、命こそが何よりも大切です。どんなに困難な状況にあっても、命を守ることが最優先であり、被害者はまず自身の命を守るための行動を取るべきです。命がなければ何も始まらず、何も成し遂げられないからです。

 

最も厳しい現実は、被害者自身が加害者と一緒にいる間、無意識のうちにその虐待構造に加担してしまうことです。これは辛い事実ですが、被害者がその環境から離れ、自らの命を優先する行動を取ることが最も重要なステップです。虐待やDVは、サディズムとマゾヒズムの構造の中で成り立っており、被害者がその輪から抜け出さない限り、連鎖は絶たれません。

ですから、被害者に求められるのは、勇気を持ってその環境から離れること、そして周囲の人々も中立的な態度ではなく、被害者の命を守るために具体的な行動を取ることです。専門的な支援を提供する機関に手渡し、被害者の命を最優先にすることが、最も正しい対応なのです。

 

虐待やDVの地獄から逃れるためには、まず最も重要なことに気づかねばならない。それは、加害者の側にいる限り、あなたがどれほど心を砕き、涙を流そうと、その暴力は決して止まることがないという事実だ。彼らはあなたの痛みと絶望を糧にして、ますます支配の力を強めていく。あなたの存在が、まるで燃料のように彼らを強くしているのだ。

外からの助言も時には毒となる。何も知らない他人が、あなたの経験を手探りで判断し、まるで自分がすべてを理解しているかのように語ることがある。しかし、その言葉は往々にして的外れだ。彼らはあなたが歩んできた道を知らない。その結果、彼らの言葉はただあなたを混乱させ、迷わせるだけだ。

 

だからこそ、あなた自身の中にある直感と勇気を信じてほしい。

外部からの助言は自分が助言してることの意味と結果を理解していない増して自分の娘が同じ目に遭っていたら「夫の元に帰りなさい」と同じ助言はしないだろう。命が関わっていること、その助言一つで一人の命が失われると言うことを理解していない。良かれと思って助言していることが的外れな場合が友人、聖職者を入れて9割。

 

それではどうしたらいいのだろうか。それは専門家に頼ることです。虐対やDVの場合行政と法律の力を借りること、彼らはそのために勉強もして、経験もそれなりに積んでる。色んな似たパターンのケースを見てきているので加害者の行動パターンをよく理解しているのだ。もちろん被害者の行動パターンもよく知っている。虐待的な人間関係に身を置く場合、被害者を支配する感情は恐れです。その上の道を歩いている福祉の人たちを頼りにすることがまず一歩目です。

 

恐れは問題を解決するように設計された脳の部分をシャットダウンします。恐れは考える力を萎縮します。だからこそ勇気を出して虐待やDVの環境から境界線引いてまずは行政と法律の力を借りて後ろを振り向かずその環境から離れることが第一歩です。

極度に追い詰められた心境で、物事の善悪を判断する能力を一時的に人は失うか、著しく衰える状態になっていると言うことも福祉の人達はよく知っています。だから友人や聖職者のところに行く前に行政と法律の力を借りることを考えてください。

 

あなたの命がかかっているのです。その後、後遺症と向き合って戦わなければいけません。完全に回復するまでの道のりは長いものです。人間不信、喘息、パニック症、鬱、不眠症、心的外傷後ストレス障害(PTSD)など。とある医学者が言うには、病気や苦しみは、心や身体に何かが働きかけ、その自然な機能を妨げることで生まれる、という視点は非常に重要です。特にストレスが心や体にどれほどの悪影響を与えるかは、科学的にも広く認められています。心の負担が身体に出ることで、例えば高血圧や血管のダメージといった物理的な問題が生じるのは、ストレスがいかに強力な要因であるかを物語っています。

 

さらに、虐待の被害者が自身を責める傾向について、非常に鋭い指摘をされています。これは、被害者が自分を責め続けることで、加害者の意図に沿った形で心を蝕まれ、さらに苦しみを増幅させてしまうという悪循環に陥るからです。そうした中で、責任の所在を明確にし、自己責任感から解放されることは、回復への重要な一歩となります。

加害者だけでなく、それを黙認する者も責任を負うべきであり、権威を持ちながらも行動を起こさないことは、加害行為と同等に問題であると理解されるべきです。被害者が自らの価値を見失わず、自分を守る権利があると気づき、そこから立ち直るための手助けが必要だという点がとても大切です。

 

自分を責めるのではなく、原因を冷静に見つめ、そこから離れることで、自己の尊厳を取り戻す力を持つことが、最終的には心と体の健康に繋がっていくのでしょう。

虐待やDVを目撃して何もしないことが、実際には容認や黙認と同じだということは、多くの人々に知ってもらうべき重要なポイントです。これを認識しない限り、虐待や暴力が継続し、被害者はさらに苦しむことになります。

 

また、「赦し」と「関係の回復」の違いについても、多くの人々が誤解していることが多い点です。赦しは、自分自身の心を解放し、毒抜きをする行為であり、加害者の悔い改めを待つ必要はありません。しかし、関係の修復は別であり、加害者が本当に悔い改めなければ成立しません。この違いを理解しないと、被害者が無条件に加害者と関わり続けてしまい、再び被害を受けることになってしまいます。

 

「離れることを拒むことが加担すること」という考え方は、まさにその通りです。被害者が加害者と一緒にいることで、加害者に虐待する機会を与えてしまっている現実があります。これは、被害者自身の行動が無意識に加害者を強化し、結果として負の連鎖を続けさせてしまうことにつながります。愛することとは、ただ関係を保ち続けることではなく、時には距離を置くことで相手に自分の行動の結果を認識させることは一つの愛の形でもあります。

虐待、いじめ、DVの経験を通して私は「一番痛い涙」と言う痛さを知った。その涙は、言葉にできないほどの痛みや恐怖が積み重なり、脳が起きていることを理解、整理できない時に感情や記憶が麻痺して涙すら流れない状態、その流れない涙を「一番痛い涙」である。

 

自分の感情や考えを言語化できなくなるほどの深い傷は、脳が防御機能として記憶を一時的に閉じ込めることすらあります。これは、生き延びるために脳が選んだ生存戦略であり、記憶を一時的に忘れることで痛みを和らげてきたのだと思います。しかし、回復の兆しが見える時、それらの感情を少しずつ言葉にできるようになること、涙がやっと流れる時が癒しに向かっているサインなのだ。

 

そして、二重被害についての指摘も非常に重要です。特に、聖職者や社会的な支援者たちからの不適切なアドバイスや反応が、さらに被害者を傷つけることがあります。「赦せない気持ちがある」などと責める声が響く時もあります。だからこのような経験を通っている被害者の心情を理解し、その境界線を尊重することが何よりも大切です。

 

最後に、デリカシーのない質問をする人々についても、あなたが強くなり、プライベートな質問に対して自分の意志をしっかりと伝えられるようになることも大切です。答えたくない質問にたいしてはっきり「このことに関してはプライベートな事柄ですので答えたくありません。」と答える強さも必要になってきます。毎回新しい出会いをする度に同じ質問をしてきては答えなければならないよおうでは回復が遠ざかるのみです。虐待やDVの経験を持つ人々に対する理解がまだまだ不十分であるため、こうした無神経な質問は辛いものですが、それに対して自分の権利を守る力を持つことは非常に大切です。