佐藤伊知子
85年、当時東北福祉大3年生で神戸ユニバーシアードで優勝し、
ワールドカップで全日本デビュー。
身長は169cmながら、1m近く跳ぶランニングジャンプと、
明るい性格、笑顔でたちどころに人気者となった。
翌86年も全日本に選出され、世界選手権などを戦った。
87年、NECに入社。
全日本は一年ブランク。
87ー88の日本リーグでは新人賞を獲得。
チームも初優勝を収めた。
88年、ソウルオリンピックの代表として全日本復帰。
準レギュラーとしての活躍を見せた。
しかし、準決勝のペルー戦、最終セットの終盤、彼女はベンチいた。
そしてレフト2人の番号札をもったまま、
ただ祈るまま、
…メダルの夢が消える瞬間を見守るだけだった。
佐藤の魅力は、レシーブと思われがちだが、
攻撃面でも、その跳躍力で低身長を補い、かつそれにプラスしたうまさがあった。
肩を後ろから回すように打ってみたり、バランススマッシュ気味に横から打ったり、時には左手で打ったり…とにかくいやらしい打ち方。
確かに当時、世界を見てもなかなかいない選手だった。
89年の全日本ではキャプテンを任され、背番号も『1』に。
サポート役を任されていたが、
その年のワールドカップでは、大林が負傷したため、そのポジションに入り、フル稼働した。
そしてレシーブ賞獲得。
佐藤自身も肉離れながら。
90年は若いメンバー主体の中、キャプテンを任される。
世界選手権、アジア大会など思うような成績を残せない戦いが続く中、まとめ役としては辛い1年を味わった。
この年の最後の試合だったトップ4で、勝利した後、
めったに涙を見せない彼女は、珍しく大泣きした。
91年、オリンピックの切符獲得が至上命題の年、ベテランが復帰する中、
やはりキャプテンとなる。
アジア選手権での勝負の韓国戦では、見事なリリーフで流れを変え、
勝利に導いた。
ワールドカップでは、ケガ人のせいもあったが、
ほぼフル出場。
間違いなく、日本で一番活躍したし、
予選リーグ敗退後(7位以下確定)の順位決定戦でも、責任を一身に背負ったかのような戦いぶりに、感動させられた(結果7位)。
しかしこの頃既に、彼女の膝は悲鳴をあげ始めていた。
その後の日本リーグでは、膝の調子がひどく、
ジャンプすらまともにできない状態。
92年、いよいよバルセロナオリンピック。
新鋭・山内の登場で、メダルへの期待がまた高まっていた。
しかし、思うように動かない体。
その時彼女の体を動かしていたのは、
4年前、ソウルに置いてきたあの思いだったのだろうか…。
予選から苦しい場面になると、佐藤に出番が回ってきた。
しかし、ジャンプは7割程度しか回復していない体。
去年までのように、うまく火消し役ができない。
準々決勝のブラジル戦、
これまでだったら佐藤が最後までロングリリーフ、という試合展開。
監督は彼女にその役割を任せなかった。
そして、ブラジルに敗れ、メダルへの夢は潰えた…。
5・6位決定戦となった最終戦。
ウォームアップゾーンで彼女は泣いていた。
言葉では簡単には言い表わせない、さまざまな思いが、交錯したのだろう。
その後スーパー4で、
4年間背負い続けた『全日本キャプテン』という重い荷物を降ろし、
92ー93の日本リーグでNECを卒業し、
現役生活に幕を下ろした。
後輩たちが成長する姿を見守るような表情が印象的だった。
85年、当時東北福祉大3年生で神戸ユニバーシアードで優勝し、
ワールドカップで全日本デビュー。
身長は169cmながら、1m近く跳ぶランニングジャンプと、
明るい性格、笑顔でたちどころに人気者となった。
翌86年も全日本に選出され、世界選手権などを戦った。
87年、NECに入社。
全日本は一年ブランク。
87ー88の日本リーグでは新人賞を獲得。
チームも初優勝を収めた。
88年、ソウルオリンピックの代表として全日本復帰。
準レギュラーとしての活躍を見せた。
しかし、準決勝のペルー戦、最終セットの終盤、彼女はベンチいた。
そしてレフト2人の番号札をもったまま、
ただ祈るまま、
…メダルの夢が消える瞬間を見守るだけだった。
佐藤の魅力は、レシーブと思われがちだが、
攻撃面でも、その跳躍力で低身長を補い、かつそれにプラスしたうまさがあった。
肩を後ろから回すように打ってみたり、バランススマッシュ気味に横から打ったり、時には左手で打ったり…とにかくいやらしい打ち方。
確かに当時、世界を見てもなかなかいない選手だった。
89年の全日本ではキャプテンを任され、背番号も『1』に。
サポート役を任されていたが、
その年のワールドカップでは、大林が負傷したため、そのポジションに入り、フル稼働した。
そしてレシーブ賞獲得。
佐藤自身も肉離れながら。
90年は若いメンバー主体の中、キャプテンを任される。
世界選手権、アジア大会など思うような成績を残せない戦いが続く中、まとめ役としては辛い1年を味わった。
この年の最後の試合だったトップ4で、勝利した後、
めったに涙を見せない彼女は、珍しく大泣きした。
91年、オリンピックの切符獲得が至上命題の年、ベテランが復帰する中、
やはりキャプテンとなる。
アジア選手権での勝負の韓国戦では、見事なリリーフで流れを変え、
勝利に導いた。
ワールドカップでは、ケガ人のせいもあったが、
ほぼフル出場。
間違いなく、日本で一番活躍したし、
予選リーグ敗退後(7位以下確定)の順位決定戦でも、責任を一身に背負ったかのような戦いぶりに、感動させられた(結果7位)。
しかしこの頃既に、彼女の膝は悲鳴をあげ始めていた。
その後の日本リーグでは、膝の調子がひどく、
ジャンプすらまともにできない状態。
92年、いよいよバルセロナオリンピック。
新鋭・山内の登場で、メダルへの期待がまた高まっていた。
しかし、思うように動かない体。
その時彼女の体を動かしていたのは、
4年前、ソウルに置いてきたあの思いだったのだろうか…。
予選から苦しい場面になると、佐藤に出番が回ってきた。
しかし、ジャンプは7割程度しか回復していない体。
去年までのように、うまく火消し役ができない。
準々決勝のブラジル戦、
これまでだったら佐藤が最後までロングリリーフ、という試合展開。
監督は彼女にその役割を任せなかった。
そして、ブラジルに敗れ、メダルへの夢は潰えた…。
5・6位決定戦となった最終戦。
ウォームアップゾーンで彼女は泣いていた。
言葉では簡単には言い表わせない、さまざまな思いが、交錯したのだろう。
その後スーパー4で、
4年間背負い続けた『全日本キャプテン』という重い荷物を降ろし、
92ー93の日本リーグでNECを卒業し、
現役生活に幕を下ろした。
後輩たちが成長する姿を見守るような表情が印象的だった。