何時だったか、チラッとニュースで見たことがある。

本来は、病人の為に、食べやすくする為に、手間をかけて食べやすいようにしたものであるそうだ。

最近の子供は、魚が嫌いの子供も多いらしいし、ましてや、骨を取り除きながら食べることは、考えられないらしい。それと、食卓に並ぶ数々の食べ物でも、集中的に食べるそうだ。

私には、ピンとこない。子供に大してだけではなく、それを見つめている親の視線も。

これは、今どき日本だけの話じゃない。文明が進むことにおいて、人間は現在進行形に“らく”をすることを覚えてきている。これは、退化現象である。

“らく”をすることが悪いのではなく、それによって失われていく美的感覚、“自然”あるいは“ほんもの”という意識。

確かに、科学の進歩により、色んなことが解明されている。その速度は20世紀に入り、著しい勢いで進展している。その進展に直接携わっている人達には、感謝すべきである。魚の骨を、ピンセットで一つ一つ取り除いていく人達。そこには、切実なる“想い”が、働いていることであろう。

“らく”をすることには、必ず代行するエネルギーが消耗されているはずだ。



骨をとる前の魚。これも、何千年か何億年か知らないが、進化した形である。そこには、必然的は形の美しさが存在する。

私は、さんまを食べる時、自分ではとても上手に食べ上げていくと、今までは思っていた。ところが、最近強烈なライバルが現われた。妻君の魚の食べっぷりは、綺麗、美しいの一言だ。

特に、子供の教育に関しては、大切なことだと思う。現実は、オギャンといった瞬間から、教育=大学である。点数価値が、高くないことには、上級しない。

魚を綺麗に食べることは、頭脳開発、いや右脳開発の一貫だと考えられないか。日常生活の中で、意識を注ぐならが、いくらでも教材は見つかると思う。上手に解体することによって、物事の仕組みが分かってくる。

小さなこと、マイクロのことが分らずに、大きなプロジェクト、マクロには進めない。

魚を綺麗に食べることだけが、大事ではないが、躾にもつながるのではないか。

私が幼い頃は、祖母の存在があった。とても厳しい人で、母におねだりをしていると、カミナリが落ちてくる。怖い人だったイメージがある。それが小学校の上級生ともなると、厳しい中にも“やさしさ”を感じはじめる。大人になって、従兄弟、従姉妹の間ででる言葉は、尊敬する言葉だ。

とは、言いながら私自身も曲がりくねりながら、人生を歩んでいる。それだけに、子供達には、“やさしく、楽しい”だけではなく、“厳しさの中にも、喜び”を感じる体験が必要ではないでしょうか。