任天堂の新型ゲーム機の特徴は過去の資産であるファミコン、スーファミ、N64、GCのソフトが遊べるというところらしい。これは僕にとっては楽しみだ。さくさく遊べるファミコン時代の任天堂のソフトを楽しめるわけだし、粒ぞろいのN64のソフトだって出来る。これくらいありがたいことはない。ファミコンのソフトの人気が根強いことはゲームボーイで発売されたファミコンミニの売れ行きが上々だったことを見れば一目瞭然だ。たぶんもうゲームから遠ざかった40才台の気持ちをつかむかもしれない。40台の人にはそのころ一緒にゲームをした仲間と集まってプレイしてもらいたいものだ。懐かしいからといって、一人でやったって面白いのは最初だけで、一時間もすると「もうあのころとは違うんだ。自分は変わってしまったんだ。」と痛切に感じて滅入ってしまうだろう。仲間と遊んだあの頃が輝かしければ輝かしいほど、楽しければ楽しいほど、「あの頃みんなで騒いでゲームしていたなぁ」と感慨にふけっている間はいいが、ふと現実に戻って周りを見渡すと、一人、みたいになると、それぐらい切ないことはない。思い出を反芻するつもりで買ったはずがむしろ切なくなってしまう。これが一人で昔のゲームをプレイする時の危険な面だと思う。最初の一時間は楽しいはずなので、その楽しさを持続するにはやはり、当時遊んだ仲間がいないと駄目だ。プレイするゲームだけではなくて、環境すらも当時のままにしないと、マジで欝になるよ。


出来れば、当時一番仲のよかった友と、一緒に。「この隠れキャラどうやって出すんだっけ」「ここでBダッシュだよね」とほこりのかぶった古ぼけた記憶を引っ張り出しながら。


一人で回想するのではなく、あの頃の仲間とともに。仲間の声を隣で聞き、仲間と話し、そして酒でも飲みながら、大人の余裕を持ちつつプレイしてほしい。そういうオサーンたちなら尊敬に値する。


ファミコンは小学校時代遊んでいた口であるわれわれ三十代もやはり同じだ。ゲームはコミニケーションツールだった。一人で黙々とやるものでなく(まぁそういうゲームもあったし、友達も呼ばず黙々と一人でする奴もいた。でもそんなゲームばかり買っている奴なんていなかったし、一本や二本みんなで楽しむゲームを誰しも持っていた。)みんなでやるものだった。互いの表情のわかる距離で楽しくやっていた。それは一人でするよりも何倍も楽しかった。時には明日の授業の話をしたり、マンガの話をしたり、次の休みは何しようか話したりもしながら。そしてゲームに飽きたらマンガを読んだり、外に遊びに行ったり。ゲームを通してコミュケーションをしていた。ゲームを楽しみながらも会話を楽しんでいた。ゲームをしたいがために友達の家に行っても、結局は友達と遊ぶということを楽しんでいた。

だからこそ、懐かしのゲームを一人でしても、物足りないのだ。一番大事な部分が欠けているのだ。

ゲームそれ自体も楽しいがそれが楽しさのすべてじゃない。ゲームを通して生まれる場の雰囲気が楽しかったのだ、それが楽しさのすべてだ。

そういうわけで。

音信不通だった昔の仲間や、今もよく遊ぶ昔からの仲間と一緒に僕は楽しむつもりです。