僕にとってこのブログは、本当に自分が信じてることを書いていきたいということ。

 

そしてこのブログを通して一貫して言いたいことは、

 

年齢・性別・国籍という、あるようで実際には見えないボーダーを超えていきたい。

 

もちろん、それらは見えると言えば見えるかもしれない。

 

たとえば、年齢なら、免許証に生年月日が書いてあるから、目に見えるし、

 

性別は服を脱げば見えるし、

 

国籍だってパスポートを見れば一目瞭然なわけだけど、僕は別にそういう事務的な理屈を言ってるのではなくて、精神性の問題なんだよね。

 

年齢は免許証を見ればわかると言ったけど、じゃあ逆に、免許証を見なかったらどうやってわかるん?

 

それはもちろん、5歳と55歳は見て違いはわかるけど、30歳と35歳とか、60歳と70歳とか、わかんなくない?

 

それをあたかもわかったかのように語ることは、単なる自己認識の問題であって、じゃあ仮にそこに区別をつけたときに、なんかいいことある?

 

もっというと、年齢で線引きすることで自分が幸せになるのだろうか。

 

同じく、性別に着目することで、誰かの幸せが実現されるのだろうか。

 

生物学的な性のことを言ってるのではなくて、社会的性の話。

 

生物学的な性のことを言うのであれば、子どもを産めるかどうかみたいな違いに帰結せざるをえず、ならば子どもを産む意思のない女性は女性なのかとか、射精する意思のない男性は男性なのかとかという話になる。

 

または、意思云々ではなく、機能として不可能な場合もある。


社会的に、人間の再生産活動は一面ではたしかに重要で、だからこそ出生率が韓国はどうで日本はどうとか、ヨーロッパはどうとかそういう話になる。

 

経済活動という視点で見たときにはたしかにそれは重要かもしれなくて、簡単に言えば、資本主義社会において経済成長が前提として求められている社会で、人口が増えることは消費者を増やすことだし、生産者も増えることだから、経済成長においてはこれまで必須だったわけだけど、AIが人間の労働にとって変わろうとしているこのご時世において、そもそも生産活動の成長のために人間の頭数が必要とされる前提すら崩れようとしている。

 

もちろん、短期的に見れば国が国として成立するために生産者と消費者とを国内で賄ったほうが計算が単純だから、目先の出生率や人口に関して無視できないことは間違いないのだけど、それが生物としての人間、もう少し主語を大きくすると、自然として、地球として、必須なのかと言えば、それはかなり怪しい。

 

人口が増えれば食糧問題とかそれはそれでいろいろあるわけで、つまり、人口問題というのは、国民国家のボーダーが未来永劫続く前提においては重要かもしれないが、しかしそもそも国民国家の成立過程を考えたときに、必ずしもそれが生物の一類系としての人類にとって必須だったとはいえない。

 

そもそも、人類がいわゆる「発展」をしないといけないのかというと、それ自体に対しての疑問が大きい。

 

たしかに、経済的に成長すれば、立派な家に住んだり、美味しい食べ物が日常にある世界線にいられるかもしれないが、それがいわゆる「幸せ」と相関に位置するのかというと、その相関関係を論理的に説明することはかなり難しい。

 

もちろん、このことを考える際に、そもそも幸せとはなんぞや?という話になるわけだけど、

 

生まれたことは果たして幸せなのか?


美味しいがカロリーの高い飯に囲まれることは幸せなのか?


カロリーの高い食事をしながら皮下脂肪をなくしたいとパーソナルトレーニングに高い金を払う生活が幸せなのか?

 

狭い柵の中で、クルクルと回って、ストレス解消しているネズミを見たとき、僕たちはそれを幸せそうだと解釈するのだろうか?

 

ところが、主に先進国において、僕たちは、やたらと美味しい食べ物を求めたり、立派な車に憧れたり、より広い家を求めたりする。

 

だけど、そのことによるストレスも大きくて、その「幸せ」らしきものを求める生産活動の対価として犠牲にしているものをあまり考えない。

 

「幸せ」とは何か?

 

もちろん、人には人の幸せの形があるのだから、誰かが人様の幸せを決めつけるような話ではないのだけど、

 

つまりそういうことで、世の中は世の中の大勢として、こうあるべき的な「傾向」があることは否めない中、そうした傾向に抗うことは一定程度自由なのだけど、しかし容易なことではない。

 

僕はいつもそうした挑戦をしたいと思っていて、僕だって幸せを求めているし、何らかの縁があって僕に関わってくれる人の幸せも当然に期待している。

 

理由は簡単で、自分の幸せの実現のためには周囲の人の幸せも実現されるべきだからだ。

 

こんな言い方すると、何様や?って話かもしれないけど、仕組みはシンプルで、誰かの犠牲のもとで自分のやりたいことを実現できた気になっていても、ふと周りを見渡したときに誰かが苦しんでいたら、それでも幸せを感じることは難しいからだ。


それでも自分は幸せだと感じる人もいるかもしれないが、僕はそう思わない。

 

だから、みんなで幸せになりたいんだけど、その「幸せ」の定義がそもそも不可能だから、現実的に「みんなが幸せ」という事態の実現は極めて難しい。というか、それを議論しだすと自家撞着に陥って、結論を出すのは不可能になる。

 

だから僕たちは、目先の幸せを定義して(それはしばしば環境に左右されるわけだけど)、その定義した幸せに近づこうと努めるわけだけど、いざ目の前に自分の定義した幸せと違う考えの人が現れると、そこに抗う。

 

つまり、これは宗教と同じで、自分が「幸せ」と定義したものと異なる考え方をする存在は、自分の信じてきたものを揺るがしかねない危険な存在なのであって、人は、自分が信じているものと違う信念を持つ存在が隣にいてもそれでも自分の信念を貫けるほど強くないからだ。

 

これがまさに僕が年齢や性別や国籍が無意味だと考える理由のひとつで、つまり、もしも年齢や性別や国籍が本質的に意味のあるものであるならば、それが異なる存在に出会ったときにもなお自分の信念を貫けるはずで、そうした概念が異なる存在が目の前に現れたときに必死に否定してしまうことは、そうしたボーダーがいかに脆弱であるかの証左であるわけだ。

 

仮に、年齢や性別や国籍がそんなに重要な意味を持ち、そこに決定的な差異があるのであれば、何も不安になる必要はないはずではないか。

 

しばしばそうした線引きに人が囚われるのは、それにあたかも意味があると信じることで思考をサボりたいということだ。

 

人と人との関係に名前をつけたり、物事に値段を設定したり、私は女だから、俺は男だからと線引きしたり、昼職と夜職に線を引いたり、ぜんぶ目先の安心感を求めるマインドであって、

 

僕たちは、人間なんだよ。

 

もっと言うと、僕たちは生き物なのであって、生き方に貴賎はないし、生きる目的だって究極的にはないわけだし、じゃあなんで生きてるの?って言ったら、それは、たまたま生きちゃってるから生きてるんでしょ。

 

だけど僕たちはそんな世界に生きながらも、こうしたいああしたいとあれこれ考える。

 

そんなこと言うと、じゃあ考えなきゃいいじゃんって言われるけど、

 

違うんよ。

 

こうしたいああしたとあれこれ考えることがダメなんじゃなくて、こうしたいああしたいとあれこれ考えることで自分の首を絞めることって、つまらなくない?ってことなんだよね。

 

人は、悩んでるように見せかけて、悩んでること自体を楽しんでるんじゃないの?

 

もっと究極的な悩みが果たしてあるのか言うと、あるよ!と自信を持って言える人は本当にいるのだろうか?

 

たとえば貧困の国で食べ物もなく餓死寸前の子どもを見て、先進国の人間は「不幸だ」と規定するかもしれないが、それはもしかしたらその環境に生まれてきたことが不幸なのであって、その環境の中でもなおも幸せを追求すべきだというのは、その人たちをかえって追い詰めていることになるかもしれない。(ていうかそもそも「不幸」を定義することは不可能なはずだ。)

 

じゃあ、経済的に「恵まれた」国に「たまたま」生まれた人間が「幸せ」なのかと問われれば、それを肯定することはかなり難しい。

 

仮にそうであるならば、先進国において自ら命を断つ人間など存在しないはずなのだ。

 

ところが、現実を見ればそうでないことが明らかなのだ。

 

要するに、そうした議論自体が、前提のすり合わせができていない点で、結論がない。

 

なら、なぜ僕たちは議論をするのか。

 

それは、そうした議論自体が生きることそのものだからだと僕は思う。それをするエネルギーがある状態を「愛」と呼ぶのだと思う。

 

人はよく、言葉で表現しなければ伝わらないとかと言いがちだけど、言葉で表現して伝わる範囲など、言葉で伝わる程度のことに過ぎない。

 

言葉で伝えると、なんとなく理解したような気分になれるけれど、それをもって人間を理解したとどうして解釈できるのだろうか。

 

人類は、自然言語を獲得してしまったせいで、何でも言葉で伝わると考えがちだけど、言葉で伝わる範囲など、極めて限定的であるはずで、その証明は、自然言語を獲得した人類やそれに近い知能の動物以外には自然言語という意思の伝達手段がないはずなのに、今日も地球では生きているという事実にある。

 

僕はこういう話がしたい。

 

男か女かとか、チソコがでかいとか小さいとか、そういうくだらない話に興味がないし、目先の「幸せ」らしきものとか、それってなんの意味があんの?と思う。

 

そんな話をしていることこそ、あなたの人生という限られた時間の無駄遣いなんじゃないの?と本気で思う。もっと真面目に生きれば、と思う。

 

毎日を、あくせく活動することが「一生懸命」生きていることではない。

 

僕は自分以外の人の考えを否定する趣味はないが、仮に自分が否定されたように感じたときは、ちゃんと反論する。それによって他人の考えを変えることに興味はないが、しかし、口出しされることを黙って受け入れるほどボーッとは生きていない。

 

愛があると言うのならば、そういう面も含めてわかりあいたい。そういう関係性がいい。