アメリカでの今日の報道は、


昨日起きたフロリダでの銃乱射事件の話題で持ちきりだった。


持ちきりとは言っても、日本よりはるかにチャンネル数が多く、報道機関によって主義主張も明確で、しかも地域による特色が濃い状況にあって、はたしてアメリカ全土でこの話題が持ちきりだったと言ってよいのかはわからないが、少なくも僕が普段見ている局のニュースではかなり話題のトピックであった。


フロリダは同じ東海岸だからなのかもしれないし、カリフォルニアではまったく話題になっていないなんてこともなきにしもあらずだけれど、少なくもニューヨーク、ボストンのあるアメリカ北東部ではそれなりに大きな話題になっている。


というのも、この犯罪が単なる乱射だけでなく、黒人を標的にしたヘイトクライムの疑いが強いと見られているからだ。


昨日の記事で、被害者は2人と書いたけれど、実際には死亡した被害者は3人だったらしい。


犯人も現場で自ら銃を放って死んだとのこと。これは昨日書いたとおり。


そしてこの犯人は、事件現場となったダラージェネラルという日用品の安売り量販店を襲撃する前に、近くの大学を標的にして侵入しようとしたらしい。


ところが、この大学に車で乗りつけた際に、セキュリティチェックでIDの提示を求められた際、所持していなかったか内容が怪しかったのかはわからないが、入館を拒否されたらしい。


そこで、大学への侵入を諦めた犯人は、量販店へとターゲットを変えたという展開だったそうだ。


犯人は死亡しているから聴取はできないものの、家宅捜索や周辺からの聴き取りなどにより、おそらく黒人に対するレイシストであり、ヘイトクライムだとほぼ断定されているらしい報道がなされている。


ちなみに犯人の顔写真も公開されていて、年齢は21歳。写真を見たけれど、いかにも若そうなよくいる白人男性の顔つきだった。顔写真だけであれこれ言うのも不適切かもしれないが、あえて言わせてもらえば、知能レベルは中程度で、運動は不得意。学生時代から何かに秀でていたわけでも、女子にモテたわけでもなく、地味でオタク気質な冴えない男。


いや、これは僕の勝手なプロファイリングなので、甚だ不謹慎極まりないことは承知だが、現実問題として、人の外見からある程度人格を予測することは、初見の人間と肌を合わせる仕事を長くしてきた自分としては安全管理上必須の能力だし、そうでなくても海外で生き抜く上では、危機管理能力としてその人の外観や周囲に放つ空気感からプロファイリングすることは、たとえそれが不謹慎だろうが偏見に満ちていようが、現実問題として軽視できないことなのだ。


とはいえ、そうした発想はまさにヘイトクライムにも直結しかねないことである。


つまり、人の外観で勝手にカテゴライズして、その特定の集団を悪い奴だと決めつけることがまさにヘイトクライムの生まれる根本的な思想そのものだからである。


ただ、僕が言っていることと実際に起こるヘイトクライムとでは決定的な違いが2つあって、


それは、カテゴライズの解像度と、そしてどのような形で実行するかである。


カテゴライズの解像度という点においては極めてわかりやすい話で、国籍によって、◯◯人だから嫌いとか、肌の色によって好き嫌いを判断するような態度はカテゴライズの解像度があまりにも荒すぎる。


仮に、◯◯人は◯◯だ、という構文が成り立つのならば、国内の内紛などありえないし、国内の政治的な対立などありえないし、そもそも民主主義も選挙も必要ないはずだ。簡単な話だ。


たとえば日本という国では、国政選挙で日本人が投票してるはずなのに、票は割れるし、◯◯党がいいだ悪いだとやっている。


当然ながらアメリカでも大統領選挙に投票できるのは全員アメリカ人のはずなのに、トランプ派だバイデン派だと、赤だ青だ紫だと騒いでいるわけである。


この事実が、◯◯人は◯◯だという構文の無意味さを証明している。


同じ理屈で、人種によってカテゴライズすることがいかに馬鹿げているかということは、一定以上の知性があれば容易に理解できるはずである。


一方で、個人それぞれの外観によるプロファイリングは、その人がそれまでに接してきた人間の特徴を総合したような頭の中のデータベースみたいな蓄積であって、それを信頼しすぎることは危険だけれど、ある程度参考にすることは誰だって多かれ少なかれやっていることだし、むしろそれを信じずには何も行動できない。だからこれは普通、偏見とは呼ばない。解像度が荒くなりすぎると偏見になりかねないから、できるだけその解像度を高くしようと努力するわけで、そこにある種の偏見性はあるのだけれど、いわゆる単なる偏見にならないように苦心しながらその線引きを探るのが、人間の日常としての活動そのものなのである。


さて、そうした個人的な頭の中のデータベースに基づくプロファイリングの結果、黄色信号が灯ったとして、ただちにその相手を抹殺するかといえば、通常はそうしない。


黄色信号や赤信号が灯った相手なのだとしたら、自分がその人の前から立ち去るべきだし、しかるべき機関に通報なりをすべきである。当然ながら、私刑は日本でもアメリカでも認められていない。


悲しいことではあるが、個人のレベルでたとえば黒人が嫌いとかアジア人が嫌いとかという本音がある人がいたとして、その人を止めることはできない。


感情は人それぞれである。思想信条の自由も認められている。むやみやたらにその思いを外に出してはいけないが、内心に留める限り、個人の自由である。


けど、普通一般に良識的な人間ならば、自分が嫌いならばその人と付き合わないだけだ。別に世の中から消そうなどと考えることはない。ところが現実にはヘイトクライムと呼ばれる犯罪が発生する。そしてアメリカではその度に社会運動的なものが加熱する。


だが、白人であれ黒人であれアジア人であれスパニッシュであれ、良識ある人は普通は犯罪を犯さない。もちろん種類にもよるから、たとえば事故的に犯してしまう犯罪というのも現実にはあるけれど、簡単に言うと、故意にライフルを無防備な人間に向けて放つような犯罪は、通常は犯さない。つまり、今回の犯人に限らずだけれど、銃乱射事件を起こすような人間は、精神に異常を来していることが確実で、社会的にはエラーを持った分子であるという解釈が妥当である。もちろん、だからこそそうしたエラーがなぜ生まれたのかという原因を調査することは今後のために重要であって、そのために警察や検察が捜査するわけだけれども、その際に、ヘイトクライムだと断定することは、むしろ真相の追求から遠ざける結果になりはしないかというのが、この記事で言いたい僕の考えなのだ。


つまり、心神耗弱者の起こした狂った犯罪だと言い放つことは、心神耗弱者に対する差別につながるから当局や報道機関はそうした見解を避けようという意識があり、その結果、犯人にも何らかの意図があったに違いないという、ある種の合理的な目的を見出そうとするわけだけれど、


その結果として、そうした単なるエラー分子による犯罪行為をヘイトクライムと一般化することにより、かえって人種や国籍による分断を社会に対して煽る結果になりはしないかと僕は懸念するのだ。


平たくいうと、今回のフロリダの21歳の白人キモ男が黒人を普段から嫌っていた精神錯乱者で、そいつが黒人3人を射殺する事件が起きたとき、


これをヘイトクライムだと言うのではなく、精神錯乱事件だと言うべきだと思うのだ。


つまり、ヘイトクライムとして処理してしまうことは、裏を返せば、世の中にはレイシストはいるし、ヘイトクライムもなくならないよね、という認識を

必然のこととして共有する結果にしかならない。


レイシスト?なにそれ?頭おかしいヤツやん?


って理解するべきなんじゃないの?


レイシスト?いるよね…


とか、


ヘイトクライム?あるよね…


と合点するのではなく、


頭おかしいヤツがいたが、そいつらにどう対処すべきなのかという、より個別具体的な検証が必要なのだと思う。


より正確に伝えたくて少々混み入った言い方になってしまったけれども、


僕がこの記事で言いたいことをまとめると、


ヘイトクライムとしてまとめるとアメリカ社会ではなんとなく説得感があるけど、


それがむしろ人種間の分断を助長することになるから、


ヘイトクライムという結論は避けたほうがいいと言うか、もっと犯人個人の特性に関しての調査なり報道なりに迫ったほうがいいと思う。


ここでまたBLM運動みたいなのが盛り上がるのも、ちょっと不毛すぎる。


もちろん、被害関係者にとっての悔しさとやり場のなさは想像を絶するのだけれど、


標的を見つけて分断を煽っても、誰も報われない。




アメリカに限ったことではないと思うけれど、少なくも現在のアメリカ社会においては現実に存在する身近で大きな課題だ。