昨日の記事の続きなのですが、
こっちが本当は言いたかったことで、
「政治に興味が持てない」と思い込もうとどんなにしても、
興味が持てないはずがないのだ。
なぜなら、政治って、どこか別の世界で知らない誰かがアッチャコッチャやってる何かではなく、
まさに僕たちの日常に直結してる超生々しい話であるはずだからだ。
だからということで、
できる限り頭を柔軟にして
いろんな情報に触れようと試みるわけだけれど、
(それはある意味で国民の義務みたいなものなような気もするので)
しかし、どんなに探しても
説明が見当たらないことが多い。
というか、そもそも国民が苦労して探さないと見つからないような説明は、
説明してないのと同じではないかと思うのだ。
そして、いろんな情報に触れようとすればするほど、
その過程で様々な人のポジショントークのフィルターに巻き込まれて、
挙げ句は口論の現場に直面することになり、
気持ちがクサクサするばかりなのだ。
政治は生活そのもののはずだから、
積極的に知りにいくべきことだと思うけれど
(と同時に、消極的だとしても自然と耳に入るくらいに公開されるべきだとも思うけれど)
しかしなぜか、そうした大切な情報に触れようとすると、
感情を逆撫でするような、乱暴で悲しい言い回しにばかりを目にすることになる気がするのだ。
民主主義が対話でなく、単なる対立であるならば、
そんな民主主義は終わっていると思う。
そして、対立構造ばかりが目につくから、
そうした対立構造を作っているのは
自分のポジションを守りたいだけの人間に見えて、
そのことをもって、欲望主義者という言い回しをしたのだ。
本来的には誰も対立などしないで済むならそれに越したことはないと思うはずだけれど、現実に対立構造が根深いということは、対立をあえてすることで得をしている人がいるからだ。
わざわざ対立すること(ここでは、情報を出すべきなのにあえて出さないような場面や、説明すべきなのにあえて説明しないような場面も含む)を選択する人たちを見とけと言われても、
精神が荒むだけである。
したがって、政治は生活そのものだから無関心ではいけないという言葉と同時に、
政治なんかを見てたら心が荒むから、あんなものは見るべきではないという言葉も正しいと思う。
若者の政治離れとかつては言われ、今となってはもはや国民の政治離れという状態なのだと思うけれど、
それは政治から離れることで、個人としての精神衛生状態をなんとか保っているくらい、
事態は深刻なのではないかと思うのだ。
無関心なのではなく、
無関心になろうとしなければ耐えられないくらい、錆びかけた椅子をめぐる陳腐な対立が目に余るということだと思う。