ああ、とても良い夏が過ごせたなぁ。

 

と、勝手に一人感慨に浸ってしまうのだけど、

僕にとっての夏は終わった。

 

 

どこかに行こうかなぁとか

夏前にはいろいろ考えたりもしたのだけれど、

 

けっきょく今年の夏はどこにも行かないことにした。

 

 

この場所で、

まだまだ経験していないことも多いし、

身近な人の、知らない部分もまだまだたくさんあるなぁと思って、

 

場所を変えることは、

新しい発見をするための

もっとも早い方法のうちの1つでは

あると思うのだけれど、

 

今年それをしなかったのは、

身近にあるいろいろなもの

(それは、街であり、人であり、そして自分自身でもある)を

もう一度ゆっくりと見つめてみたいと思ったからなんだよね。

 

 

少しは落ち着いて

夏を過ごせたんじゃないかなと思ってるよ。

 

ほんとうに、とても良い夏だった。

 

 

旅は、

日常をかき混ぜることで

気持ちを昂ぶらせることができるけれど、

それは目の前に現れるものに対する

反射的な興奮にすぎないことでもあって、

 

テンションは上がる代わりに、

それによって見えづらくなる現実も

多い気がする。

 

 

今年の夏は、久しぶりに

自分自身や身近な人と


思いきり向き合える時間になったと思ってるよ。

(自分と向き合いすぎた結果、

ブログを更新しまくるという事態にも

陥ったりした。笑

すでに思い出。)

 

 

僕がいつも「個」であることを

ことさら強調するのは、

他人が大切じゃないからでは決してないんだ。

 

人はいつも大切で、

人と人との関係性なしに、

人が存在しえないのは当然だと思ってる。

 

いつも夢中になる相手は「人」なんだし、

喜ぶのも傷付くのも、

いつも「人」由来のものだ。

(そしてそれはいつだって、

アナログの存在としての人間だ。)

 


集団が嫌いなわけじゃ決してない。

みんなと一緒に過ごすことが

どれだけ楽しくて豊かな時間になるか、

それはもちろん言うまでもない。

 

僕が伝えたいことは、

しかし、

集団という枠組みには、

必ず排他性を伴うということで、

 

集団を形成したときに

自動的に生産されている

「排他性」という

副作用にも意識を配らないと、

 

大きな声に掻き消されている小さな声が

きっとあるに違いないという恐怖なんだ。


 

これはもちろん

自分が排除される恐怖でもあるし、

誰かを排除してしまうことになるかもしれない

という恐怖でもある。

 


集団に右往左往するのではなく、

自分自身の意見というものに忠実に

行動や発言を選択することが、

(要するに、

集団に流されずに自分の心の声を聞くことが、)

 

その行動や発言の結果に対して

唯一検証可能な手段なのではないかと思うんだ。

 

だからこそ、

「個」であることが大切だと思うんだよね。

 

集団が主体になるのではなく、

あくまで個が主体で、

 

独立した個人が

目的に応じて協力する関係性が

健全な集団の形なのではないかなと思うよ。

 

そしてその時々の目的に応じて

関係性は変わっていく。


 

だけど、

それでもいつもそこにいる関係性の人もいて、

それを「ご縁」と言うのだと思うんだよね。

 

これは決して「絆」が弱いことではないと思うんだ。

 

「ご縁」は作ろうとして作るものではなく、

その空間の目的に応じて、

お互いが気持ちを尊重して

相手の気持ちを想像して、


それぞれが自分のできる範囲の

最高のパフォーマンスをして、


だからその集団から生み出されるものには

エネルギーが満ちていて、

 

そしてそのプロジェクトが完了した後でも

その人とまた出会えるならば、


その「ご縁」が継続するように

お互いを尊敬し合うということなのだと思う。


 

「ご縁」は、

本来そうした自然由来のものだと思うんだけど、


レッテルやグルーピングというのは

「ご縁」という結果ありきで


強制的にフレーミングすることだから、

だから

レッテルやグルーピングというものに

違和感があるんだ。

 

それは、このブログで何度も書いてきたことだよ。

 

 

同居人との関係性でいうと、

そこに「彼氏」とか、

そうでないとかという

レッテルを貼り合うことは、


不用意な「束縛」の関係性を

生むことになると思うんだよね。


 

束縛というのは、

一度それをし始めると

あれもダメ、これもダメと

首を絞め合うことになると思う。

 

首を絞め合う関係性というのも、

それも1つの覚悟の形なのかもしれないけれど、

僕には、残念ながらその強さはない。


 

過去に付き合ってきた彼氏と

束縛の関係でお互いに身動きが取れなくなり、

心理的に逃げるしかなくなったことがある。

(それは、お互いに)

 

しかし、

その元カレと別れた後には

その人自身と会えなくなってしまった。

(当然のことだ)

 

ネットで簡単に出会えるからこそ、

出会っては別れ、

出会っては別れということが

可能なのかもしれないけれど、


そういうお互いの時間を「消費」するような関係性は、

やめたいと思った。

 


それが、「同居人」という意味なんだ。


これは、1つの逃げなのかもしれないが、

しかし、

「束縛」が「愛」だ

というのも違うのではないかと

僕は思っている。

 

だから、

兄弟のようでありたいと思っている。


そして、

彼が外で誰と会おうが(本音では気になるが)

気にしないようにしている。



「同居人」という言葉には、

その思いを込めている。



レッテルの担保がないからこそ

大切にしたいと思っている。



これが、

僕が社会を狭めたくないと思う

ひとつの覚悟の形だ。


この形が未来永劫続くかどうかなんて

わからないが、


どうであれ、

結果は結果でしかなく、

最初から結果を期待して行動するものではないとも思う。


結果がもし違ったのなら、

反省してまたやり直せばよいのだと思う。



これが、

僕の夏の総括。



夏が、終わった。