2009年3月26日(木曜日)曇り ときどき 雪
先日の引越しの最中・・・
息子や娘と過ごしたクルマの中での
高速自動車道の移動の数時間に感じた想いは
二十歳前後の悩み多き自分と全く・・・
リンクして…一瞬にして私を過去に立ち戻らせた。
『果たして自分は何者なのか?…』
その想いの余韻を心のどこかに残している
その中での、今日の茂木さんのブログは、
ここ数日の引越し中に
車の中で息子や娘と話した徒然を、
蘇らせてくれて…
フム、フム…と納得したりした。
どんなにか悩んで
編入試験を受けて
新たな旅立ちをするタカと…
どんな想いで決断して、
家に戻ったのだろうFっちゃんと…
そして、沢山の不器用な上に病気を抱えて
葛藤の中に入るSII-と…
それぞれの想いの中で
それでも必死に…
自分と戦う子どもたちに
心の中でエールを送りながら…
茂木さんのブログより…
「やわらかな光につつまれて」
ご多分にもれず、若い時は西洋かぶれで、ヨーロッパの文化が最高だと思っていた。日本の中に、自分の魂を捧げるべき素晴らしいものがあるとは思っていなかった。
二十代半ばで小津安二郎監督の『東京物語』を見て不意打ちにされた。ごく普通の人々のささやかな人生を描いていながら、一つひとつの場面が神々しい光を放っている。老夫婦が最後に帰っていく尾道の風物に魅せられ、居ても立ってもいられなくなって新幹線に飛び乗った。
尾道水道を見下ろす千光寺公園は、桜が満開だった。小津の映画の面影を必死になって探す私を笑うように、ちらちらと花びらが舞った。そのうちに、遠い昔の映画の残像よりも、目の前の魅惑的な小都市の有り様に心が惹かれていった。
細い路地を歩くと、あちらこちらから生活のにおいがした。猫が目の前を横切り、お婆さんが背中を丸くして手仕事をしていた。そのような光景が、人生はもっと力を抜いてもいいんだよ、と言ってくれているような気がした。
当時の私は、将来自分が何をするのか、一向に見当がついていなかった。懸命に背伸びをしながら、確信というものが持てなかった。新幹線に飛び乗ってしまったのは、そんな自分のやり切れなさを散らすためでもあったのだろう。
理想は遠くにあって憧れるもののではなく、ほんのささいな日常の所作の中に込められるもの。そんな、今となっては当たり前の人生の真実を知らぬ未熟者にも、初めて目にする街はやさしかった。
忘れられないのは、瀬戸内のやわらかな陽光である。桟橋から舟で渡った島で、みかんの香りに包まれた。全てがやさしく照らし出される中に、それまで悩んでいた様々なことが、どうでも良いもののように思えた。遠い海の青が、自分の心のすぐ横にあるように身近に感じられた。
花見において、私たちは春の日差しそのものを楽しんでいるに違いないと思ったのは、あの時である。たおやかな桜の花ひとひらと私たちを分け隔てすることなく、等しく恵みを分け与えてくれるはるか天上の恒星。その作用が、花を見上げる私たちを包み込むぽかぽかとした気配へと変換される。
だから、私にとっての花見は、圧倒的に昼下がりである。小津映画における市井の人の善意が心に染み入るように、太陽のあたたかさが私たちの命に活力を与えてくれる。
今年も待ち遠しいその時がきた。もしも満開の桜の花の下でお酒に日の光を溶かしこむことができたら、私の中でまた一つ何かがときほぐれてくれるだろう。
讀賣新聞「よむサラダ」2007年掲載
