2009年2月1日(日曜日)


昨日は、SII-と約1か月ぶりのスポーツジム。


体重が10キロほど減ったことで


みんなに「痩せたね…ラブラブ」と言われることがうれしそう…


行動が意欲的…アップ



今日は、SII-と二人で北上市内で行われた


剣道の練成会を見学に行ってきた。


久しぶりに剣道に触れて…


練習風景を見ながら刺激をもらった。


SII-も然り…


練習風景を本当に、熱心に見ていた。


弟のコクゾウ(仮名)も、ご夫婦で


指導者として参加していた。


SII-の剣道の先生にも、久しぶりにお会いした。


挨拶に行った。


SII-に練習に顔を出すように…言ってくれた。


子ども達の指導に…


「俺(先生)の助手をしてくれ…」って言っていただいた。


SII-はとてもうれしそう…


面は被れなくても・・・


きっと…


昔取ったなんとか…


何かに得ることが、あるのかもしれない。





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午後、

リハ講習会の原稿を直しながら書き始めた。

今までのいろんなことを思い起こしながら

自分自身、感じること…大きかった。




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16歳だった私の娘は、2000年(平成12年)1月、高校1年生の時、直径8Cの左脳を埋め尽くす脳腫瘍が発見され、冬休み中に摘出手術を受けました。手術前の執刀医の説明で、ありとあらゆる最悪の事態が説明され、良性とも悪性とも判断がつかず、「命にもかかわる」と、オドかされていましたので15時間後、手術成功の連絡を受けた時の感動は、今も忘れることができません。

術後1ヶ月が過ぎて、外見的には何の後遺症も見受けられないということで知能検査もせずに退院…3月には丸坊主にバンダナを巻いて高校1年の終わり頃復学しました。コース分けで進学コースを希望していた娘は、迷いも無く2年生で進学コースに進みました。

家族とっては、もともと、すべてに行動がのろく、要領がいまいち、良くない子でしたので、とにかく座ればすぐに横になって寝てばかりいることや何かと手がかかる小学生に戻ったような行動の変化を、手術の後で体力が落ちてのことなのだ---くらいに思っていました。

娘の異変に、いち早く気づいて家族に問いかけてくれたのは、高校2年の担任の先生でした。

先生の友だちの紹介で、リハビリテーション科の先生に、お会いました。問診の後、先生はリハビリの必要性を語りましたが、『紹介状が無ければ診れない。』とおっしゃいました。通院する病院で「知能の検査をしてほしい」とお願いしましたが「必要ない」と云われました。『苗木を早く伸ばそうとひっぱたら、どうなる?枯れてしまうだろう』と言われました。その頃は、今のように高次脳機能障害という障害も、それに伴ういろんな症状も知られていませんでした。結局、いろんな状況からリハビリはあきらめました。                                          

娘は自信のあった剣道も出来なくなり何一つ自信の持てるものを失ってしまいました。

皆が自分の事を中傷している妄想とパニックで教室に入ることさえ出来なくなりました。

高校生活は、思い通りにならない記憶と行動に悩んだ2年、そして廻りの人にとっても娘はトロクて、空気を読めない厄介な存在だったのかもしれません。

保健室登校…。出席日数が足りず進級も危ぶまれました。

校長室で担任の先生を交えて話し合いが持たれました。「何とか進級させたい」という担任の先生の熱心な働きかけと、長期休みの特別授業や放課後の特別授業をしていただきました。お陰で進級、辛うじて高校を卒業することが出来ました。

卒業後は、手術の時お世話になったナースに憧れ、高等看護学校を目指しました。予備校に1年、自宅で一年勉強しましたが失敗。自動車免許は何度、失敗しても諦めずに受けて、合格する事ができました。

その後、医療事務を受講しましたが、計算に時間がかかるためか、結局、合格できませんでした。ホームヘルパー2級は合格できました。

ラーメン屋さんでのバイト、病院での看護助手も経験しました。

知り合いで優遇してもらって入った病院で、『グウタラまでは、指導できない…』と云われた時は、そんな風に育てた親の責任を責められた気がして辛かった…。

それでも娘は諦めずにまた次の仕事を探してきました。

働き始めて、学校では、それほど見えていなかった症状が如実に現れ始めました。

覚えられない、判断が悪い、気がきかない、作業に時間がかかる…、空気を読めない…。

焦れば焦るほどパニクって真っ白になり、ますます出来なくなる。

働く現場で、できない事を、嫌がらせやいじめという形で受けていたらしい…。

どの仕事も1ヶ月もするとクビに成りました。

高次脳機能障害という障害を抱えていたことに家族も周りの人間も気づかずに、ただ性格の問題と片付けていました。娘の苦しみをなにも気づいて遣れませんでした。それでも娘は、愚痴ひとつをこぼすことなく頑張っていました。その時の大変さは後で聞きました。

看護助手として勤めた次の職場では、本当に良くしてもらいました。覚えが悪い、気付いて行動できない分を、時間を決めて作業の手順をメモにして持たせてくれたり、遣れるように、いろいろ工夫してくれました。

雪が降り、2交代勤務で朝早いため、初めての一人暮らしも経験しました。                                                                                                                                                                                 

勤め始めて3カ月…抗けいれん剤の飲み忘れか脱力発作が頻発するようになりました、結局発作が原因で解雇に成りました。疲れもピークに達していたのかも知れません。

2005年4月発作を心配した、勤務していた病院の神経内科のDrに、宮城のテンカンの専門病院を紹介していただき検査入院することになりました。

その病院でいろんな事実が明らかになっていきました。

県外への入院は大変でしたが、MRIや脳波の検査結果がその日のうちに出て治療方針を聞け、医療のハードの部分が充実している病院だと思いました。手術後、飲み続けていた抗ケイレン剤の見直しでは、今まで飲んでいた薬をすっかり抜いた状態で次の薬を入れて状況を見る方法です。薬が効かなくなるとペンキの上塗りのように増やしていくことの多い中で患者のことを考えた治療法だと思いました。また本人へ検査結果をコピーして渡し病状の把握させる事と薬の自己管理です。血液検査や脳波の検査結果を本人に渡し、病気と向き合わせてくれました。自分が飲んでいる薬の名前を暗唱させ、自分で管理し飲む習慣づけをして頂きました。その病院で使っていた薬帯(やくたい)は今でも壁に張って使っています。

また、将来の自立を意識した指導です。病気の症状に応じて病院の中で(医療器具を洗ったり、動けない患者さんの洗濯をして)働いて報酬を得ること、そして病院と一貫した作業所での訓練、将来社会に貢献する目標など…いろんな意味で娘の将来の指針をしていただきました。

退院して2年過ぎた今でも、娘の習慣の、そこここに形として残っていることに、その病院の影響力の大きさを思います。

入院中に知能検査、心理テスト、東北大に転院しながら高次脳機能障害のレベルの検査をしていただきました。精神的な部分でのレベルが下がっているため高次脳機能障害のほうの検査はさわり程度で終わりましたが知能検査でIQ54(幼稚園レベル)と診断され、知的の障害が認定されました。結局、発作の見極めと抗テンカン薬の選定、転院によって転倒発作、ケイレン発作の繰り返しで、2年近い入退院を繰り返すことになりました。

入院中、面会に行くたびに、ドンドン性格が変化していくような気がしました。娘の本来の人格は何処にあるのだろう…と悩みもしました。

入院期間が長くなることでのリスクもありました。

娘の術後、自信を失い、自分の価値を見失ったこと、そして、それでも『何とかしたい!』という強い心の叫びだったのかもしれません。捨てきれないプライドや現実を受け入れたくない想いがあったのかもしれません。多分、無意識のうちに逃げ出したい…その手段として、発作という形を身につけざるをえなかったのかもしれません。長い入院生活のなかで、いろんな発作が連発してきました。現実の大変さから逃げ込む手段としての発作という形を身につけざるをえなかった娘の苦しみと葛藤を思う時、胸が痛くなります。

術後すぐの段階から高次脳機能障害と分かって対応してもらっていたら…、大変さを分かってやれていたら…こんな風に遠回りすることはなかったかもしれない…と本当に悔まれました。                                 

手術後の高次脳機能障害と知らずに過ごした月日の長さを思いました。

家族だけでも娘の症状を病気なのだと分かって対応してやっていたらどんなにか救われたか知れません。

そんな中で娘は、定期の脳のMIRの検査時、医大の外来の壁に貼ってあったイーハトーヴ家族会のポスターを見て独り、イーハトーヴを探し尋ねた。

娘は、「お母さんが解ってくれない。」と言ったと後でその時、対応した家族会の人に聞きました。同じ想いの人たちに出会って、どんなに心が癒されたかしれません。

家族は、何も分かっていなかった…本当に何も分かってはいなかったのです。

入院外泊中の娘と一緒に、リハビリテーション講習会に参加し慈恵会医大の橋本圭司先生の講演を聞いた時、本当に『目からウロコ』の心境でした。

次に何をしたらいいか自分で気づいて行動できない…それも症状だったのです。

そうだったのだ…娘の症状は病気から来るものだったのだ…。

そんな娘に、イライラして叱りつけてきた日々、随分キツク当たってきた日々を想いました。

多分どの職場でも一緒に働く人たちをイラつかせていたであろう娘の行動…。なんでそうされるか、どうしていいか、わからずに悩んできたのだろう、娘を思いました。

岩手に戻ってからも、病院を3度変わりました。パニック発作、夢遊の徘徊、転倒発作、ケイレン発作、救急車の常連。

初めての鍵のある病棟への入院時は、その判断が正しかったのか…私達家族はとんでもない間違った判断をしたのではないか…とガラス越しの娘の姿を想い出しては胸が締め付けられ、眠れない日々が続きました。しかしその入院は、『良い所、出来たことを褒めて、認めてやることの大切さを学んだ意義のある入院』でもありました。

退院しては施設での入居者とのトラブルで病院に逃げ込む。入院中しては患者さんとのトラブルで施設へ逃げ込む、その繰り返しでした。

微妙な薬の加減で口を半開きで放心と空をぼんやり見つめるばかりの時、薬の量だけで発作は止められるのか?発作さえなければそれでいいのか?という想いに悩みながらも、入退院を回避できませんでした。

昨年、パニック発作が出始めて悩んでいた時、奥州市でのリハ講習会の相談会で石っこの会でお世話になっていた●先生に相談に乗っていただきました。その中で、娘の希望で●先生に心理のリハビリが受けられることになりました。

多分、それがきっかけになりました。その後の全国大会での全国の元気な当事者との出会いも大きな立ち直るきっかけになりした。

娘は、やっと発作の自縛、入退院という自縛から解かれました。

2回にわたる『石っ子の会』高次脳機能障害者地域参加支援事業の参加による本人の学習もさることながら、家族の学習も大きな収穫でした。本人以上に周りの支える人たちが悩んでいる場合が多いと思います。その家族の学習や繋がりが、大事なのだということを強く思います。

今、娘は送迎のある知的障害の施設のデイサービスに通い2年目になります。

施設のコーディネーターさん、デイの娘の担当指導員さんには、本当に一生懸命になっていただきました。リハ講習会や高次脳機能障害の本も一緒に読んでいただきました。本人、家族で問題が発生した都度に施設で話し合いを持っていただきました。施設の担当者さんには娘との交換ノートで気持の変化を確認していただいています。

やっとこの頃、入居者とのトラブルや軽いパニックを繰り返しながらも、ひとつずつ対応法を見つけ、克服しながら日常的に作業が出来るようになりました。

この1月19日で『入院しない!』が1年になりました。

16歳だった娘も、25歳になりました。

最近、目標が見えてきた娘は、表情も本当に別人のように明るくなり、小さな気持ちの浮き沈みは有るものの、施設では施設の、リハビリではリハビリの、イーハトーヴではイーハトーヴの自分を分かってくれる人たちに見守られながら、相談しながら、人とのかかわり方を学習し生かすことができるようになってきました。

目の前の目標をこまめに掲げてあげて、本人も納得した上で、リハの先生や主治医や施設と家族が同じ思いで、考えていくことが大事なのだと感じています。そして出来た事を褒めてやる事、好きなこと、出来る事から伸ばしてやること、価値を認めてやることの大切さを実感しています。

それが、多分…薬だけでは回避できない症状を、癒してくれる気がしてなりません。

これまでに学習を踏まえながら毎日の生活の仕方と今後の目標をこまめに設定してやり、方向付けをしてやることが大事なのだと感じています。

ちなみに娘の最終的な目標は『障害者枠での福祉の現場で働くこと』だそうです。

自分を救われたように誰かの救いになりたい想いは誰より経験した本人の熱い想いなのかもしれません。

私たち家族は、いろんな病院との出会いやイーハトーヴとの出会い、「石っこの会」やリハビリテーション講習会による学習でいろいろな対処法を学びました。そしてすばらしい沢山の人たちに支えられて、やっとの思いで此処まできました。

高次機能障害による多岐にわたる症状、知能や記憶の問題、道筋を立てて行動できない注意障害や自信を失った娘の想いなどについて、受症後のその時、その時点で対応してやれなかったこと…が、今も…、今でも…悔やまれてなりません。

見えない障害、高次脳機能障害は本人の辛さはもちろん…それを見守る家族の辛さがあります。

記憶の問題、うまく人と関われない問題、それは簡単に心の問題として表われたりします。

子供であれば、その症状から、親が、親としての自覚や育て方を問われることがたびたびあります。親は親なりに一生懸命です。だから辛く、苦しいこともあります。当事者と同じように病んでいる場合も多いと思います。

沢山の問題を抱えながらその障害と気づかず、辛抱している人がたくさんいるはずです。

それは際限なく続く長い、長い、道のりです。

年齢的にいっても親や家族のほとんどは、当事者よりも先にこの世を去ることになる…。

高次脳機能障がい者が、受症後、その時点から、普通に当たり前のこととして、目に見えない色んな問題に患者一人一人の症状に即した一貫したトータル的なケアを受けることが出来るようになってもらいたい。

高次脳機能障がい者が「生まれてよかった、生きてきてよかった」と自分に思える人生にしてほしい…、この住み慣れた地域で当たり前の生活をし、生きがいを持って生涯を全うできる事を心から願っています。