2007年9月15日(土曜日) 晴れ
11時集合、13時半~
実家の母と兄貴…そしてデイの施設のるり子さんやとも子さん、運転手の佐藤サン、コーディネーターさんなど忙しい中、駆けつけてくれた。
参加者は少なかったが、いろんな人と交流できて、元気を貰えて良かったと思った。
結局…、人の繋がりで生かされている自分を思っていた。
今回の発表で、ひとりの人でも何かを感じ取ってくれたら…
それだけで発表した意味はあるのかもしれない。
以下…公開講座_発表原稿
家族の想い
娘のSII-が15時間にも及ぶ手術のさなか… 確かに、『SII-が生きていてくれさえいれば良い』と…そればかり、思っていました。そして手術の成功を、歓声を上げて喜んだ…その記憶は7年たった今でも鮮明に脳裏に焼きついていて忘れることはできません。SII-を助けてくれた執刀医が神様に見えたものです。あの時---ただただ助かった…助けられた命の尊さを思っていました。
感動ドラマであれば、そこでハッピーエンド…『どんど晴れ(?)』です。
しかし現実には、其処からが術後の生活の、始まりなのです。
顔を傾けないとまっすぐにものが見えないと首をかしげて歩いていたのが、普通に見えるようになって、耳の聞こえの悪さも改善し、出にくかった言葉も少しずつ出るようになって…見た目には殆んど普通の人に戻っていました。身体的に何の後遺症も見受けられない娘は術後、約1ヶ月で自宅に退院してきました。
そして2ヶ月目…3月には、坊主頭にバンダナを巻いて高校1年生に復学しました。
今になれば、リハビリの意味アイもあって、それはそれで正しい判断だったという気もしますが…少し早かった…とも、思いました。
本人にとって高校生活は、思い通りにならない記憶と行動に悩んだ2年だったのかもしれません。 娘の異変に、いち早く気づいたのは、高校2年の時の担任の先生でした。その頃は、今のように高次脳機能障害という障害も、症状も、有ることさえ、分からない頃でした。担任の先生の友だちの紹介で、本人を連れてリハビリテーション科の先生に、お会いしました。その先生は、問診の後、リハビリの必要性を語りましたが、『紹介状が無ければ診てやれない。』とおっしゃいました。しょうがないので通院している病院に電話して成績の事も気になるので退院前にするはずだった知能検査をして欲しいと頼んでみました。しかし『必要ない』と云われました。『苗木を早く伸ばそうとひっぱったら、どうなる…枯れてしまうだろう…』と云われました。
家族は本人の将来を心配して、何とかしたいと…いうその思いだけなのにその想いは、『枯らしてしまうことなのか?…』と、胸が詰まって…後は何も云う事ができませんでした。今思えば、どの場面でも紹介状の有無に関しては、関所のように立ちはだかりました。いろんな病院を放浪してきて思うのは、患者の症状の根本的なところを総合的にわかってくれる病院やDrが居てほしかったなあああぁ…ということです。 せめてあの時、検査だけでもしてもらっていれば、もっと早くいろんなことに気づいて遣れたのかな~・・・と思うこともあります。 娘は自信のあった剣道も出来なくなり何一つ自分の自信の持てるものを失ってしまいました。皆が自分の事を笑って中傷している妄想とパニックで教室に入ることさえ出来なくなりました。 高校生活は、思い通りにならない記憶と行動に悩んだ2年、そして廻りの人にとって娘はトロクて、空気を読めない厄介な存在だったのかもしれません。保健室登校…。精神科への通院が始まりました。出席日数の不足で進級も危ぶまれ校長室で担任の先生を交えて話し合いが持たれました。担任の先生の、学校側に対する熱心な働きかけで、長期休みの特別授業や放課後の特別授業をしていただきました。そのお陰で、辛うじて高校を卒業することが出来ました。
卒業後は、予備校に1年通い、高等看護学校を目指し受験しましたが失敗しました。
自動車免許だけは、何度も失敗しても諦めずに受けて、合格する事ができました。
ラーメン屋さんでのバイト、個人病院での看護助手も経験しました。しかしどの仕事も1ヶ月持ちませんでした。 剣道関係で優遇してもらって入ったはずの病院も、『剣道は指導できるがグウタラは直せないからな…』と親である私に云われた時は、そんなふうに育てた親の責任を責められた気がして辛かった…。 それでも娘は諦めずにまた次の仕事を探して決めてきました。
家から通えなくて、初めての一人暮らしも経験しました。一人暮らしを始めて、起きはじめた脱力発作が抗ケイレン剤を急に止めた事によるものだったのか、精神的な部分での症状だったのか、今となっては知るよしもありませんが、発作が頻発するようになりました。よくしてもらって数ヶ月続いていたその病院も発作が原因で解雇になりました。発作の頻発を心配した、その病院の神経内科の先生の紹介で宮城のテンカンの専門病院に2週間の予定で検査入院することになりました。結局、発作の見極めと抗テンカン薬の選定、そして転倒発作、ケイレン発作の繰り返しで、2年の入退院を繰り返すことになりました。
入院中に知能検査、心理テスト、東北大に転院しながら高次脳機能障害のレベルの検査をしていただきました。 精神的な部分でのレベルが下がっているため高次脳機能障害のほうの検査はさわり程度で終わりましたが知能検査でIQ54(幼稚園レベル)と診断されました。知的の障害が認定されました。
そんな折、イーハトーヴに出会います。同じ思いを持って日々葛藤している人たちに、出会ってどんなに、心が癒されたことか…。そして私は入院外泊中の娘と一緒に、慈恵会医大の橋本圭司先生の講演を聞くことになります。そこで、初めて高次脳機能障害というものを知るのです。橋本先生の講演を聞いた時、本当に目からウロコの心境でした。
次に何をしたらいいか自分で気づいて行動できない…それも症状だったのです。
そうだったのだ…娘の症状は病気から来るものだったのだ…。
それを初めからわかって接してあげていたら…と本当に悔まれました。 そして、改めて家族がやれる事を考えるきっかけになりました。
長い入院はいろんな弊害を引き起こします。そしてそれは後になって気づくのです。 入院中、面会に行くたびに、薬の影響なのか、環境の影響なのか、ドンドン性格が変化していくような気がしました…。娘の本来の人格は何処にあるのだろう…と悩みもしました。
テンカンの専門の病院で娘は、いろんな発作の有り様を学習したのかもしれません。現実の大変さから逃げ込む手段としての擬似発作という形を身につけざるをえなかった娘の苦しみと葛藤を思う時、胸が痛くなります。 どんなに苦しめてきたか… 家族だけでも娘の症状を病気なのだと分かって対応してやっていたらどんなにか救われたか知れません。
岩手に転院し、知的のデイサービスに通うようになりました。コーディネーターさんが、基本的な生活習慣を身につけるように無理のないスケジュール表を作ってくれて目標を設定してくれました。
精神科に通うようになって、岩○○和病院の○藤先生に出会いました。家族の娘に対する共通の思い、施設とのつながり、そしてDrとのつながり…みんなが同じ思いで接する事が大切なのだと、思えるこの頃です。
○藤先生に出会って、繰り返しの基本的な生活習慣を身につけること、失った自信を取り戻すこと、ほめる事の大切さを学んだような気がします。
今、娘は、週2回のデイサービスに通いながら自宅で療養中です。7月から社会参加支援事業『石っこの会』にも参加させてもらっています。ゆくゆく社会参加していきたいという娘の希望に、新たな次のステップと目標を頂きました。
これから障害と向き合う人たちが、患者の症状の根本的なところを総合的にわかってくれる病院やDrに恵まれて、総合的なリハビリが早い時期からできるようになってもらいたい…と切に願っています。
今、SII-は、増えた体重を気にしながら、週一のスポーツジムに通って、ヨガと軽いエアロビクスで汗を流しています。そして夜は主人と3人で30分のウオーキングを続けています。
状況は少しずつ変化していきます。日々変化する状況を『よく観察する事』を何時も心にとどめながら…、そして今まで学習した事を活かしていきたと思います。
『日々の継続が力』になるように、家族も本人以上にリハビリする気持ち…学習する意識を忘れないでいきたいと思います。そして、娘が生還して歓喜した想い…、生かされた事に感謝しながら、長い目で見守っていきたいと思っています。
2007年9月15日 MAA
月曜日は施設のコーディネーターさんの運転でドライブをしながら、ろうあ者サンの筆談をしてガイドヘルパーのボランティアをしています。
火曜日と木曜日にデイサービスに通っています。
水曜日は、午前中に趣味である書道に通い、午後は病院です。
土曜日はスポーツジムへ行きエアロビクスなどで汗を流しています。
そして夜の散歩も両親とともに続けています。
また記憶の訓練のために毎日の漢字、計算ドリルも行っています。
忙しい日々ですが、今では発作も無く、近所の人たちにも助けられながら楽しく生活を送っています。
SII-
