2006年10月19日(木)晴れ


小学校時代の我が家は、私にしてみれば、祖父母と父母の諍いが耐えなくて、絶えず口論の中にあった。

今になって思えば婿養子であった父を守るべく戦う母の姿だったとも云える。

母にしてみれば家を守る為という名目とはいえ自分らのエゴで家に縛り付けた自分の両親に対する、根強い反感も有ったのだと思う。

その事が、その頃の私達兄弟にして見れば、(そんな経緯も何も分からないので)ただ、ただ家のそういう不穏な空気が嫌でしようが無かった。

普段は寡黙で働き者の父であったが、一度酒が入ると変貌する人であった。

文字通りの酒乱である。酒が入ると普段のおとなしい人格はどこかに失せてしまって大声で叫んだり暴力を振るったり、無茶苦茶なことをいって母を困らせたりウォ~ンウォ~ンと恥も外聞もなく泣いたりした。

夏の夜に酒乱になって暴れて徘徊の父をパジャマのままで兄弟3人、近所に探しに行かされた事も有った。その夜は兄貴を父と一緒に寝せて母は階段に懐中電灯を持って待機した状態で寝たという記憶がある


農家で有ったので農繁期は殆んど学校から帰ると田んぼに直行パターンだった。中学校や高校よりも小学校の内が一番、農作業をさせられたという記憶がある。その時分は機械化もされておらず殆んど人海戦術だった為、猫の手も借りたい状態だったのだと思う。

春、田植えが終わると田の草取りがあって、日曜日には兄貴と二人で手押しの田の草取り機を持たされて田んぼに行かされた。何枚か、家の田んぼが並んでいて兄貴と一枚づつ別の田んぼに入るのだけど、どんなに頑張っても兄貴のほうが早く終わって・・・。兄貴はその度に自分の分が終わると黙って私の分も手伝ってくれた。

そういう意味でも兄貴は子供の頃から頼りがいのある優しい人であった。


小学校4年生ぐらいの時に稲刈りをしていて新しい鎌を持たされて稲を刈っていたとき誤って自分の小指の先端を切ってしまったことがあった。小指の先端から爪の殆んどが中央から2分割になってしまった。最初、切った時には痛みもそれほど感じなかったがお祖父さんに、「指切っちゃった~」と泣いて訴えたら、分割された指を見たお祖父さんの方が吃驚仰天して「MAAの指が捥げてシマッタ!!!」と大慌てで母を呼びにいって病院に連れて行かれた。あの時のお祖父さんの慌てようは物凄かった。

幸い切断は免れていたのでそのまま縫うこともせずに消毒してくっつけてもらった。

しばらくは定期的に病院通いで、普段は母と過ごすことが殆んどなかったので大分良くなってきた頃に、学校の保健の先生が遣ってあげるから病院に行かなくてもいいんだと言うのを、母と居たいばかりに・・・母には黙っていて病院に通ったという思い出がある。

正直・・・親の愛にはかなり飢えていたのかもしれない。

兄貴も弟も父に結構可愛がってもらっていたように思うが正直、私は父とは、会話をした記憶も、可愛がってもらった記憶もない。

古い時代の婿養子であったので、いろんな引け目と、葛藤で、普段は殆んど言葉を発することがないくらい寡黙であったせいもあったと思う。

それ故、実は、私は生まれながらにブスで可愛くなかったので実際、愛されていないのではないかと子供心に思うことがよくあった。


物心つくあたりから、農閑期になると父母は関東、関西方面に出稼ぎに行っていた。そういう意味でも私ら子供たちは祖父母に育てられたという記憶が強いのだと思う。


稲刈りが終わり米の出荷が終わると、雪がくる前に、出稼ぎに出て、3月いっぱい(ほぼ半年)帰って来なかった。春になると見たこともないような電池で動くような・・・その頃は最新のロボットや歩く犬など・・・お土産を持って帰ってくるのだった。そういう状態が10年以上続いた。


そんなある熱い夏の日、父は土建業のアルバイト中に作業事故で生き埋めになり脳内出血で3日間のこん睡状態の後に亡くなった。


寡黙に働いて、ただ働いて・・・酒乱で、寡黙のまま亡くなった。


私はまだ、中一の夏の真夏の暑い夜であった。