幼稚園というものを知らなかった私は季節託児所のようなところに預けられた。幼稚園の代わりのような所で近くの公民館だった。

砂場があってブランコや鉄棒はあったような気がする。

私はその季節託児所が嫌いだった。何せ殆んど喋らない子供だったし、独り遊びが好きな子だった。

お昼のお弁当を食べると間もなくお昼寝をさせられたがそれがまた嫌で・・・・。

そんな時も皆が寝ているのに自分だけ砂場で遊んでいたりしていた。ひどい時にはお昼寝の最中に黙って家に帰ったりした。


各学年1組しかない小さな小学校だったが、小学校に入学しても寡黙と一人遊びの習慣は変わらなかった。学校に行っても一言も言葉を発することなく帰る日が続いた。

1年の時の担任の先生が何とか皆の中に溶け込ませようと言葉を引き出そうと話題を私に振り向けてくれたのを今でも覚えている。「MAAさんの今日の服はお母さんの手作りかな、可愛いね・・・」とか、云われてもただ赤面してますます下を向いてしまうような子だった。(今は想像もできまいのであるが・・・(苦笑)・・・)


今になると何故そうだったのか覚えていないのだが校長先生にだけはなついて、何時も手をつないで学校の中を散策したという記憶がある。

祖父母に育てられて、お友達と交われない分、子供心にも、優しそうなお爺さんのような校長先生を唯一のよりどころとしたのかもしれない。

3年生くらいまではそういう状態が続いていたような気がする。休み時間は校長室に入り浸ってお習字を教えて貰った。なんだかそこでは、とても穏やかに時が流れた。とても可愛がって貰った気がする。


学校までの通学が30分もかかるような遠い学校で、忘れ物をしても家まで戻ってくるうちに授業が終わるような感じだったので、歩いたり走ったりという事が板に付いてきてどんどん体力が付いてきた。

運動神経は全く無いのだけれども、訓練の積み重ねの賜物か、ロードレースでは何時も上位だったし、水泳なども校内で賞状を貰える様になっていた。

偽り無く、不器用であったが、何でも生真面目で、内に秘めた負けん気だけは強かったのだと思う。


相変わらず発表とかは、どもって赤面して泣いているような声になって、上手く話せなかった。人前で話すのは苦手だった。それでも6年生になるまでには、何とかおとなしいながらも、みんなと交われるようになっていた。