どんな時も、人生には意味がある。 どんな人のどんな人生にも、意味がある。この世にいのちある限り、あなたには満たすべき意味、実現すべき使命が、必ず与えられている。たとえ、あなたが気づいていなくても、それは、あなたの足下に、常に既に送り届けられているのだ。 この世のどこかに、あなたを必要としている「何か」があり、あなたを必要としている「誰か」がいる。そしてその「何か」や「誰か」のために、あなたにはできることがある。その「何か」や「誰か」はあなたに発見され実現されるのをずっと待っているのだ。 だから、この人生で起こるすべてのことを――たとえどんなにつらいことでも―― 意味あること、必要だから起こったこととして静かに受け止めよ。その「何か」は、あなたに大切なことを気づかせてくれるメッセージを含んでいるはずだから。 |
いろんな予期せぬことが随分と続くような気がして居たある時・・・偶然に開いたある雑誌で「どんな時でも人生には意味がある」の言葉に出会う。数年前のことである。
そういうこと・・・なんだ―――と、なんか納得した。メモして書き写して壁に貼り付けた。何かある度にこの言葉が蘇る。いろんな難題にぶつかる度に「何か」大切なことを気づかせてくれるメッセージと捕らえることで諦めずに前に進んでいく力になったりした。
言葉というのは本当に凶器にもなるし、生きる力にもなるのだ。
いつも、いつも迷いの中にいてフラフラしている自分ではあるが、いつの時でも、真摯に生きたいと思う気持ちは、その強い思いは小さい頃から変わらない。
しかし自分の意志ではどうしようもないと思えることが若い頃にはよくあった。
その事が、相手が悪いと思っていた事でも、実は、そうさせていたのは私の対応の拙さであったのかもしれないと年を重ねるごとに思うようになった。
例えば相方との事でも、もっと上手く、相手の心情を察して話したり、行動したりしていれば、あんな卓袱台をひっくり返すような…マジ切れのような、怒らせる方をせずに済んだのだろう・・・と思えるし、ただただ自分の殻に閉じこもってむちゃくちゃに自分の体をいじめるように朝から晩までこれでもかと思うほど良い嫁をアピールしながら、相方やその家族を恨むことも無かった。
義母に怒られている夢を見て必死で言い返しながら、泣きながら、しゃくり上げながら目が覚めた事が何度もあった。出来ないものはできないと素直に甘えればよかったのだ。できる範囲で頑張れるだけ頑張ればよかったのだ。
今思えば、ただ我の強い、負けん気の強い自分が悪かったのだと分かる。誰も悪くは無い・・・そうさせて居たのは自分・・・。そのことにもっと早く気づいていれば義母とも、もっといい関係を楽しめたろう。
「お母さんは、いつも、いつも、おばあちゃんに怒鳴られて、怒られていたね・・・」「お父さんも怖かったよね・・・」と幼い頃を思い出し上musumeが云う。「最近お父さん優しくなったよね」という。
16歳の脳腫瘍手術からほとんど精神的に成長していない、純粋でシャイで幼い上musume・・・時として苛つく事もあるが、純粋さに心が和む。大切な我が子である。