敢えて、「品格」を問う | ザビエル・カトーの「いい加減に生きてます」

敢えて、「品格」を問う

 
いやあ、やっぱりきのうのブログは、大変真摯なコメントを多数頂戴した。

ありがとうございます。

なんで横綱問題はあれこれ皆さんそれぞれのご意見をお持ちなのだろうかと考えてみた。

んで、結論としては、「横綱」は「日本観」の問題だからだと考えるに至った(敢えて言えば、宗教観である)。

単にスポーツのチャンピオンだったら、ここまでみんながああだこうだ言わないのだ。

日本とは、日本人とは、というところに横綱問題は触れざるをえないから、多くの日本人は意識無意識のうちに、なんかを感じたり、意見を言ったり言えたりしてしまう。

今は戦争中と違って、個人がどんな日本観を持とうが自由だ(総理大臣はまた別だよ)。

だから、横綱に対しての意見が十人十色でいいし、正解はない。

ただ今回は、世の中として現在の「日本人の総意」でこの問題は決着したまでである。


少し、視点を変えよう。


セミナー屋の水野浩志さんが、メルマガで「品格」について著していた。(こちら を読んでいただけるとありがたい)

「品格、品格」と騒ぐ相撲協会関係の人間に対する違和感について、見事に書かれている。

この点についてはオイラもまったく同意で、「なんであんな品格のないジイサンバアサンがガタガタ言ってるんだ」というのが正直な感想である(^^ゞ

「品格」。実にイヤな言葉である。

本来とても大切な意味のこの言葉が、イヤな感じになってしまったのは、少し前に、「女性の品格」とかいう本がもてはやされてからである。

もちろん、本は読んでないので、何が書かれてるか知らないでケチをつけるんで恐縮だが、その後のマスコミ等の取り上げ方をみれば、まあなんか想像はついている。

そもそも「品格」ってなんなのだ。

ネット辞書では「その物から感じられるおごそかさ」だと。 よくわからん。

水野さんによれば、広辞苑には「人に自然に備わっている人格的価値」とあるという。

オイラはこの説明はある程度納得がいく。

オイラ流の言い方をすれば、「品格は生まれ持って、少なくとも5歳までに備わってしまってるもの」。

オトナになって、本の一冊読んだところで、身につくようなものではない。

最近はこういう言い方は世間であまり大声で言えないのだが、意外と多くの日本人が内心同意してる考え方に、「家柄」っていうものがある。

品格は家柄にかなり依存してる。

「お里が知れる」という言い方があるが、これが正にあてはまる。

きちんとした教育を代々してきてる家には、品格の備わった子供が出現する確率が高い(絶対ではないよ)ということ。

「どうせ、オイラは商売屋の息子。お里が知れてるってもんだ」とオイラも開き直ることもできるのだが(^^ゞ、んじゃあ、個人として「品格」はどうしようもないものなんだろうか。

オイラはね。自分磨きとか言って、自分の格を上げる目的で勉強をするのは、ちょっと賛成できないんだな。

そもそも、発想が下品だよ。

そんなことしても、品格は身につかない。

でもね。以前にも書いたんだけど、「自分の孫の品格のために自分を磨くのだ」、はすばらしいと思うのだ。

さっきも書いたとおり、品格は家柄に依存する。

「3代続けば江戸っ子」と言うように、孫の代に花が咲くために自分ががんばる。

自分、自分って言うな。 あくまで孫のため。

そうやって生きてりゃ、死ぬときには、ちょっとは「あの人は品があったかな」くらい言ってもらえるかも。

それでいいではないか。

セミナーの先生も同じ。

メンターとか呼ばれる大先生は(品格は置いといて)、たしかに立派なんだが、だいたい弟子、孫弟子が胡散臭い(笑)。

だから、一般人はセミナー業=眉唾物とみる。

ご本人が立派なのはわかったから、品格ある孫弟子を輩出してくれ。

自分がどうのでなく、後世の人たちのための自分は捨石。

それでいいではないか。。。。だめかな(^^ゞ

なんか各方面から「捨石」をぶつけられそうだが、まあそれもしょうがないか。

意としてるところが伝わればいいんだけどね(笑)


χανι@68.2k





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