島田 黒介のブログ

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島田黒介のブログでございます。
創作に関することや、日々考えていることを綴っていきます。

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色々ややこしいこと思いめぐらしてたんで頭の整理のためのぶろっぐ。

まず、個と集の調整本能とは。
本能、という言葉を冒頭に使ったものの、本能という言葉がピンとこない。
理性でもないし、これは理能とでも言うべきか。ともかく。
人間の生存本能に依って生まれていながら生存とはさほど関係もなく、理性によって調整されるような性格を持つ行動のことを、理能とすると定義づけよう。
例えば、人間の余分な欲望などが、それらの代表的なものと言える。
カジュアル・セックスであったり、美食であったり。

さて、この理能と言える、個と集の調整に関しての説明に入りたい。
まず、一文で表すとすれば
「人間は個であることを主張しながら同時に集であることを望み、自ら個の意義を希薄化させる行為に臨みながら、その個の存在自体が危ぶまれるほどの集となれば、これを拒絶する」
ということだ。

そしてこの大前提の中に内包される私の思想として、国家は「個」の「集団」足りて「国家」足るべくわけではなく、その幻想の下、個を意識しない「集」の「集合体」にてのみ正しく機能するべくものとして捉えている。つまり、国家に参加する国民という意味合いは、この個と集の概念の中に何ら影響を及ぼさないものとする。

さて、何が言いたいかはすでに述べてしまったのだがひとつずつかみ砕いていこう。

人間は個であることを望む。これは一人の人間として、存在しているという輪郭を常に求め続ける。
では、極論した場合の究極の個とは何か。
それは孤独である。人間である意味づけや位づけから解放され、厭世のしがらみや美徳からも解放され、全てのあらゆる概念から外れたところにある個、これこそが全てにおいての個であり、究極の個という存在になりうるだろう。
そして、これを目指すべきである。

しかし、実際の人間はこれとは違う。
必ずしも集団というものに属する。そしてそれが当たり前の社会というものを作り上げている。
生まれた時から家族という集団の中に存在し、社会というものに触れれば、その中で様々な集団を作り、属することとなる。
その分類は様々で、俗的に言えば「グループ」という言葉が近いだろうか
不良グループ、真面目グループ、オタクグループなんていうのは、聞きなれた言葉ではないだろうか。
それ以外にも趣味性や嗜好の違いによって細分化された集団というのは、社会の中に多く存在する。

それは人間が大昔から生きてきた頃の、コミューンレベルでの集団、これによる生存という習慣が、人間の脳の中に根付いているのだろう。しかしこれはあくまでも個というものを破壊する行為でしかないのだ。
そのため、集団が拡大すればするほど、これに反発する動きが大きくなる。

ちょっと長くなりそうなので一旦ここで切ります。