「女と男のいる舗道」2 | なすびのブログ

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1954年生まれの映画好き
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(承前)


女主人公ナナが
街頭に立つことにも慣れて来た頃
カフエで見知らぬ初老の男に声をかけます

男は哲学者らしく
ナナは話に引き込まれます

その哲学談義は
その後のナナの運命を暗示するようで
印象的です





見てはご迷惑?/いや/退屈そうね/全然/何してるの?/読書/何か飲んでいい?/いいよ(女は男の席に移動)よく来るの?/時たまね、今日は偶然だ/何故読書するの?/仕事さ/(私は)変ね、何言ってんのかしら、突然こうなるの、何か言おうとして、言う前によく考えているうちに、いざとなると何も言えなくなるの/そんなものさ、「三銃士」は読んだかね?/映画は見たけど、何故?/ポルトスという人物が、これは二十年後の話なのだが、太った大男が出て来るだろう、彼は一度も考えたことがない、ある時地下に爆薬を仕掛けることになった、そして導火線に火をつけて逃げた、そのとき突然考えた、何を考えたか、なぜ右足と左足が交互に出るのか、そう考えた途端、急に足が動かなくなった、爆発が起こり、足が動かなくなった、爆発が起こり地下が崩れた、彼は強い肩で必死に支えたが一日か二日後に押しつぶされて死んでしまった、考えたために死ぬんだ/私に何故そんな話を?/ただ話をするためだよ/でも何故話しをするの?何も話さずに生きるべきだわ、話しても無意味だわ/本当にそうかね/わからない/人は話さないで生きられるだろうか/そう出来たらいいわね/いいだろうね、そう出来たらね、言葉は愛と同じだ、それなしでは生きられない/なぜ?言葉は意味を伝えるためのものなのに、、人間を裏切るから?/人間も言葉を裏切る、書くようには話せないから、、だがプラトンの言葉も私たちには理解できる、それだけでも素晴らしいことだ、2500年も前にギリシアで書かれたものなのに、、誰もその時代の言葉は性格には知らない、でも何かが通じ合う、、表現は大事なことだ、必要なのだ/何故表現するの?理解し合うため?/考えるためさ、考えるために話をする、それしかない、言葉で考えを伝えるのが人間だ/難しいことなのね、人生はもっと簡単なはずよ、「三銃士」の話は美しいけど恐ろしい/恐ろしいけど意味がある、つまり、人生を諦めた方がうまく話せるのだ、、人生の代表/命がけなのね/話すことはもう一つの人生だ、別の生き方だ、分かるね、話すことは話さずにいる人生の死を意味する、、うまく説明できたかな、はなすためには一種の苦行が必要なんだ、、人生を利害なしに生きること/でも毎日の生活には無理よ、つまり、その/利害なしに?だから人間は揺れる、沈黙と言葉の間を、、それが人生の運動そのものだ、日常生活から別の人生への飛翔、思考の人生、高度の人生というか、、日常的な無意識の人生を抹殺することだ/考えることと話すことは同じ?/そうだと思う、プラトンも言っている、昔からの考えだ、、しかし、思考と言葉を区別することは出来ない、、意識を分析しても思考の瞬間を言葉で捉えられるだけだ/嘘をつきやすいこと?/嘘も思考を深める一つの手段だ、誤りと嘘の間には大きな差はない、もちろん日常的な嘘は別だよ、5時に来ると言って来ないのはトリックだ、微妙な嘘というのは、殆ど誤りに近い、、何かを言おうとして言葉が見つからない、さっき君が言ってたことがそうだね、言葉が見つからないことへの恐怖/言葉に自身が持てる?(ナナは振返り、カメラ目線になる)/持つべきだよ、努力して持つべきだ、つまり何も傷つけない言葉を見つけるべきだ、傷つけない、殺さない/つまり誠実であることね、ある人が言ってたわ、真実は誤りの中にもあるって/その通り、それがフランスでは理解されなかったことだ、17世紀には人は間違いを避けられると信じた者もいたが不可能なことだ、なぜカントやヘーゲルなどのドイツ哲学が生まれたか、誤りを通して真実に到達させるためだ/愛については?/大事なことは、正しい思考と判断の原理、ライプニッツの充足理由律、永久心理に対する事実審理、日常的人生そういった考えがドイツ哲学で発展した、現実は矛盾も可能な世界として認識されうる、、本当だよ/(ナナははにかみ、音楽が入る、男の話は佳境だが、ナナの理解を超えて来た)愛は唯一の真実?/愛は常に真実であるべきだ、愛する者を常に認識出来るか、二十歳で愛の認識が出来るか、出来ないものだ、経験からこれが好きだという曖昧で雑多な概念だ、純粋な愛を理解するには成熟が必要だ、探求が必要だ、、人生の真実だよ、、だから愛は解決になる、、真実であれば、、)




男を演じるのは哲学者ブリス・パラン、

ゴダールの恩師だそうです


おそらく、ナナがしたような質問をゴダールが投げかけると
パラン先生が滔々と語る場面が
学生時代から繰り返されていたのでしょう

この場面には主人公の未来を予感させる
不安感があります

無心でやっているうちは順調なのに
娼婦が哲学を語り始めたら終わり(?)

哲学は現実の救いにはならない(?)

ミシェル・ルグランの音楽も相まって
黄昏れた雰囲気が高まり
次は最終章です

また、「間違いの中にも真実がある」のくだりは
ゴダールの映画観にも通じると思います



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この場面は、ナナ側の質問の流れだけを打ち合わせ
後はアドリブなのでしょう

上の画像は、ナナがなぜかカメラ目線になる瞬間ですが、
ゴダールの方を振り向いて

「会話がかみ合ってないけど、続ける?」
と言ってるようです



この哲学談義、
「自分の人生を生きる、12のタブローに描かれた映画」
の11番目のタブロー

このように、ゴダール映画は、
一見脈絡のないとも見える点描の集合であり
それまでの映画になかった
デジタル感覚があります

「小さな兵隊」の中でも
映画のことを
一秒に24の真実があると表現しています

絵画の世界で点描派が登場してから半世紀、
科学では「量子論」は既に一般的でした

切断された要素の集合で
ひとつの映画を形成するというスタイルは
やがて来るデジタル時代を予見したものでもあり
時代の必然でもあったと思います



今の感覚だと
主人公のまとうTシャツに
哲学の警句がプリントされている
ようなものでしょうか