○○恐怖症というものは、だいたい網羅しているが(高所、閉所、尖端、全部ダメ)、意外と日常生活でキツいのが、「会食恐怖」。

要するに、「人と一緒にメシを食えない」というやつだ。

一般の人にとっては、「なんだそりゃ?」というような話だろう。

 

どんな症状かというと、他人と食卓を囲むと、食欲がなくなり、めまいがしてきて、最終的には吐き気に襲われ、ひどい場合にはおなかを下す。

ここで言う「他人」とは食事の相手だけではない。

コックや板前、ウェイターのような人も含まれる。

とにかく、「人に見られながら食べる」ということがとてつもなく苦手なのだ。

なので、寿司もカウンターでは絶対に食べられず、一挙手一投足を監視されているフレンチなどに至っては、拷問同然である。

私を殺すのに刃物はいらない。

「毎日フレンチフルコースを食え」と命ずれば、放っておいても私はじきに餓死するだろう。

 

別に、食べているところを見られているのが嫌なのではない。

「食べなきゃいけない」と思うことがツラいのだ。

コース料理などは、目の前の皿を片付けないと次が来ないし、相手とも食事のペースを合わせなければならないのでとても耐えられない。

「お味(お店)がお気に召しませんでしたか」などと言われようものなら、私は失神してしまうだろう。

いつも、「少食なので」ということにして、アラカルトで凌いでいる。

一人ならばペヤング超大盛でも簡単に平らげてしまうのに。

 

その意味では、結婚当初もなかなかにキツかった。

味の問題ではない。

妻が作ってくれる手料理を「食べなければならない」。

このプレッシャーだけで、私の食欲はほぼゼロになるのだ。

さすがにもう慣れたが、たとえ妻が相手であっても、今でも外食は苦痛である。

冷や汗をかきながら料理の皿と格闘している私を見て、「あなたと外食しても楽しくない」とよくボヤかれる。

 

以前、仕事の上司に招かれて奥様の手料理を味わう、という地獄のようなイベントがあった。

私の慰労が目的だったのだが、正直、罰ゲーム以外の何物でもない。

正直味など全く覚えていない。

「残したら申し訳ない」という強迫観念で気が狂いそうであった。

手間をかけた料理であればあるほど、私の恐怖感は増す。

なので、コンビニ弁当やファストフード、セルフサービスの店ではこういったプレッシャーを感じることはほぼ無い。

「作り手の顔が見える」というのも恐怖症の重要なポイントだ。

 

上記を踏まえると、以下の等式が成り立つ。

 

会食恐怖度=相手との心理的距離+料理の手間

 

一緒に食事をすることに抵抗がなくなった時、それが私の心が相手に対して完全に開かれたというサインである。

 

 

 

さて、この原因だが、根本には嘔吐恐怖があるように思う。

もともと胃腸が強くなく、食後に吐き気に襲われるということが(特に若いころ)多かった。

「食べたら吐くかもしれない」という生理的予期不安がもともとあり、ここに「食べなければならない」という社会的要請が加わった時、会食恐怖が発動するのだと思う。

 

社会人になりたての頃、恰幅の良いお偉いさんに高そうなレストランに連れて行かれ、「何でも好きなものを食べなさい」といわれるのがとんでもない苦痛だった。

食べられないことがとにかく申し訳なく、恥ずかしかった。

相手が善意であるからこそ、私の食欲はなくなり、会食の恐怖心は増すのだ。

なかなか人には分かってもらえない心理だと思うが。

 

中間管理職になった今も状況はあまり変わらない。

仕事の付き合いでの食事などの時は今でも気が重い。

ポケットには胃薬と安定剤を常に忍ばせておき、発作が出そうになったら、「ちょっと失礼」と素知らぬ顔で席を立ち、トイレでえづきながら薬を放り込むのである。

 

役員などを見ていると、人とメシを食うのが仕事であるようにすら見える。

私にはあんなことは絶対にできないであろう。

毎日誰かと会食をしないといけないくらいならば、私は一生ヒラで残業終電帰りの方を迷いなく選ぶ。

 

 

 

 

 

今年に入ってからのコロナ禍。

飲み会や会食といったものはほぼ無くなった。

そんな状況に、少し安心している自分がいる。