憧れのインディアは遠かった。
「日本人から見たインド」観をとても上手く切り取るandymoriというバンドがいました。
惜しくも数年前に解散してしまいましたが、彼らのユニークな音楽表現と情熱と、効果的な「インド」イメージの活用法は今尚色あせることはありません。インドをノスタルジアやブルースやユートピアのアイコンとして使うことにかけては、日本のロックバンドの中では彼らの右に出るものはいないでしょう。彼らの歌の世界では現実に“ジャイサルメールにはドロップキャンディーの雨が降る”し、“Life is Maya”なのです。
2020年HWV春合宿はインド。
インド第2の都市ムンバイをスタート・ゴールとしてグジャラート州、マハーラーシュトラ州を巡る旅です。
メンバーは7人と、例年のなんと2倍。
全員無事に日本に帰ってくることができるのでしょうか。
ムンバイ以外のことについてはほかのメンバーが書いてくれるので、この記事ではは旅のスタートとゴール地点であるムンバイを主に書こうと思います。
行きと帰りはANAの直行便なので安心!成田_チャトラヴァジ・シヴァジ国際空港間は約8時間。
JALやANAのサービスは利用するたびに向上していると思います。エコノミーしか乗ったことないけど。
空港について記念すべきインド初の食事。メニューは読んでも分からないのでとりあえず一番上に書いてあったDOSA MASALAを食べる。が、辛い。辛いのはカレースープだけではない。DOSAの中のジャガイモの炒め物まで辛い。
このDOSAとは合宿中何度も顔を合わせることになる。
夜ホテルについて朝起きて二食目。
小麦粉を練って焼いたROTIや揚げたSAMOSAなど、定番の料理と立て続けに出会う。大体の料理は日本人の私たちからすると辛いか味がないかの二択。Yakultは偉大だ。
最初の目的地グジャラート州ブージに向けて寝台列車のチケットを取りに行く。私たちの現在地はムンバイDADAR地区。花で有名な歴史ある地区らしい。ムンバイはもともといくつかの島だったのを埋め立てて半島にしてしできた都市なのでそれぞれの地区に特色がある。
駅に行ってチケット売り場はどこかを窓口の人に聞いて回って売り場にたどり着いた。
申請書を埋めて窓口に出す。はじかれる。また列に並ぶ。はじかれる…そんなことを繰り返すこと2,3時間、やっと申請書は正しく受理されたようだ。スリーパークラス。私たちはRAC。列車には乗れるが寝台の席は確約されていない。
まあ移動できるなら正直なんでもいい。
来た。スリーパー。
私のRACチケットの番号のシートには中年女性が既に座っている。
これは…
チケットを見せても譲ってくれるような気配はないので私には座ることはできないのでしょう。
どこにいればいいかわからないのでとりあえず常に開け放たれている乗降ドアの近くで、“座席の整理をしてくれる”と噂の巡回乗務員を待つ。
が、一向に来る気配がない。
そんな私に、ドア側仲間の赤いTシャツを着た親切な兄貴が声をかけてくれる。
「やあ,どこからきたの?」
「ジャパンだよ」
「ジャパンか。いいね!俺はお前がチャイナかと思っちまったよ。チャイナは今BIGなProblemを抱えてるからな。知ってるだろ?」
「うん」
「ところで、なんでここに立ってるの?」
「僕のチケットは何十何番シートのRACなんだけど、もうおばちゃんが座ってたから座れなかったんだ。」
「……OK,それで何でここに立ってるの?君の座席はどこか分からないの?」
上手く伝わらなかったみたい。
「僕のチケットは何十何番シートのRACで、そこにさっき行ったら知らないおばちゃんが座ってたから、僕はもう座れないんだと思って、こっちに来たんだ。」
「もしかして、電車間違えた?」
「いや、この電車で会ってると思う。ブージに行くんだ。あってるよね?」
「OK.それならあってるよ。……えっと、君はこのトレインのチケットを持ってるんだろ?なんで座らないの?」
「僕はRACのチケットを持ってて、チケットに書いてある座席に行ったら、知らないおばちゃんがもう座ってたから、僕は座れない。」
「なんだ。そうだったのか。ハハハ、ここではどこでも自由に座っていいんだよ。ほら、そこの席とか空いてるじゃん。」
そうだよね。どこでも空いてるところに自由に座っていいに決まってるよね。でも、それならどうしてチケットに座席が割り当てられているんだ?怒
この親切な兄貴のおかげでなんとか腰を下ろすことができた僕は、彼とその友達とちょっと話をしてセルフィーをとった後、ようやくヘーゲルの入門書(専門書にありがちなように、入門と銘打っておきながら全然入門書ではない)を読み始めることができたのでした。ありがとう。
Indian railwayの名誉のために言っておくと、数時間後きちんと乗務員のおじさんが巡回に来て、乗客のチェックをしていました。
この後僕たちは
ムンバイ→ブージ→(ムンバイ乗り換え)アウランガーバード→ムンバイ
というふうに各地を巡り、またムンバイに帰ってきました。
ここから先は旅も終盤、ムンバイに帰ってからのお話になります。
アウランガーバードからムンバイまでの列車は寝台でもなく、所狭しとインドの人々が乗り込んでいる、今回の旅の中で一番ランクの低い車両を利用しました。
まあでも周りの人に親切にしてもらったし、隣の清野は話を聞いてくれるしで割と快適でした。…70は過ぎているかと思われる老婆が、私のふくらはぎや腿を背もたれにして延々と通路に座っていたことを除けば。途中の停車駅で突然、格子のはまった窓の外から新聞紙にくるまれたサモサが差し入れられても、もはや驚くことではありません。それが私を背もたれに床でじっと耐え忍んでいるお婆さんへの差し入れであると瞬時に理解し、ただ黙って手渡すのみです。
ムンバイ中心部に到着。世界遺産のCSMT。チャートラヴァジ・シヴァジ・マハラージターミナルです。
この建築物は奇麗だった。
もとはイギリスの支配の象徴だったものが、独立後は観光スポットとしてムンバイのシンボルとなっています。
少し日本語を話すツアー会社に行って組んでもらったDHARAVIスラムツアー。とてつもなく大きなスラムで、その暗い裏路地を歩いて回りました。とにかく狭く、人口密度が高い。これまでインドでは腐敗臭をほとんど気にしたことはなかったけれど、ここでは多少臭います。
このスラムに住んでいる人は様々。地方から出稼ぎにきた人や、ムンバイの企業に勤めている人、スラム内で皮革製品や布製品を作る手工業者、プラスチックを破砕してリサイクルに売り出す人などなど。
裏路地では一つ一つの家は自動車よりも狭く、さらにその狭い家の上に2階、3階と別の家族が建て増しをしてさらに小さなスペースを作り住んでいました。
雨期になるとこのスラムはある程度水に浸かり、1階に住んでいる人は生活できなくなるそう。そうなったら屋根の上に移って生活するのだそうです。2階や3階にごみが引っ掛かっているのは雨期に流されてきたものなのだとか。
インド式の英語を話すガイドに尋ねます。
「こんなに狭いスペースにたくさんの人が暮らしていて、病気とか健康上の問題は起きないの?」
「起きないね。このスラムで暮らしている人たちの顔を見たかい?みんな元気でHappyそうだったでしょ?」
「うん…」
確かにそうだけど…
インドの社会経済をみると、インドの資本主義は他の資本主義諸国と比べて目立った違いはないように見えました。
特徴と言えば、中国との政治的関係が良くないことから、他の多くの発展途上国よりは中国企業が目立ってはいないということぐらい。
xiaomiなど、スマートフォン関連の会社を除けば、中国企業はあまり見かけませんでした。
しかしながら、ポストモダン論でよく言われる感情労働の類については、全くと言っていいほど問題になりません。超高級レストランにでも行かない限り店員は肉体的に必要な仕事以上のことをしないし、「ご来店ありがとうございます」とにこやかに接客をするようなスタッフも皆無です。
(2回ほど通ったind chinese restaurantの店長は私たちに対して一言も発さず、ジェスチャーですべてを伝える達人だった。この店のegg fried riceは絶品。)
ムンバイの北にある国立公園にも行きました。期待していたトレイルコースは休みの日で入れず。果物を打っていた若い女性が笑顔で快く質問に答えてくれたことは7kmを歩く私の励みになりました。ありがとう。
ムンバイのちょっと高めの喫茶店で久しぶりの肉塊にかぶりつく。
キューバから帰ってメキシコですすったオニオンスープと同じ味がします。
何とか全員無事に日本に帰国することができました。
この活動を援助して下さった先輩方には感謝しかありません。ありがとうございました。
ブージ編・アウランガーバード編もお楽しみに!