●普勧坐禅儀「非思量」
今日は朝から雨なので、家でまったりです。
久しぶりに『普勧坐禅儀』を手にしました。
「兀兀と坐定して、この不思量底を思量せよ。不思量底如何んが思量せん。非思量、此れすなわち坐禅の要術なり。」
具体的な座る姿勢などを説いた後に、この言葉が出て来るのですよね。身体ばかりが如何に落ち着いても、心が散乱していては何の効果もありませんよと言わんばかりに・・。
「不思量底を思量せよ」
「不思量を思量するとは、どういうことですか?」
「非思量。これが正に坐禅の要諦である」
「もっと分かるように書いてよ〜」という感じですけれど、そこは禅は「不立文字」と言われるところでしょうか。
文字や言葉ではどうしても説き明かすことの出来ないとも言えますし、大事なところだから敢えて言葉にしないとも言えますし(誤解されるから)、また幾ら師匠でも、そんなこと教えられることでもなく、自ら「自知」するより他はありません。
グーグルで検索すれば答えが出て来るのとは全くの別世界。
久しぶりに「そちらの世界」に行くと、何だか新鮮です。
坐禅と言えば、一般的に言われるのは「頭を空っぽにする」とか「心を無にする」でしょうか。方向性はそれで間違ってはいないものの、もう少し踏み込むと微妙にニュアンスが違って来そうです。
「不思量底を思量せよ」(思量しないところを思量するのだ)と言っていますから、それは単に思慮分別しない、見聞覚知をしないということでも無さそうですよね。
「非思量」とは何ぞや?悩ましい〜。
私は僧侶でも宗教学者でもありませんから、私の勝手な解釈ゆえに、鵜呑みにしないで頂きたいのですけれど、
きっと般若心経の「色即是空。空即是色」に通じるところでもあるのでしょうね。「有るけど無い。無いけど有る」。
そういうところの話をしているのだろうと思います。
謂わば「相対と絶対」の違いみたいな・・。
「超越しろ」と言うニュアンスなのでしょうね。思慮分別を超越しつつ思慮分別し、見聞覚知を超越しつつ見聞覚知する。
みたいな・・。
今の自分の身の丈に合う、自分の役に立つ言葉に直すなら、「捕われるな!」になるのかな?
それさえとっても難しくて、今日のように雨が降れば、やっぱり「嫌だなぁ」と思いますし、「早く止まないかなぁ。自転車で買物に行けないじゃないか」と直ぐに心を揺らしてしまう訳で、
「不動心」にはほど遠いですね。^^;
そうそう。沢庵和尚の『不動智神妙録』には、不動明王の例えの中で、「不動とは動かぬということではない。心は自由に動きながら、一つの事に決して捕らわれないのが不動智だ」とあります。
「不動」と言えば、文字づらでは「動かぬ」ということです。
でもそれは「動かぬ」ということではない、と説くのです。
坐りましょうかね。
朝は無理ですけれど、せめて夜眠る前ぐらいは。
5分でも10分でも・・。
自然とそんな気持になって来るから不思議です。
ただ、心が落ち着いたのは良いのですが、既にすっかり眠くなって来てしまったようで、ビール飲んだら、絶対寝ちゃう。
なっとらんな!
本日もお読みいただき、感謝です。