毎年、この時期が来ると思い出すよ。

それは7月20日ね。

オレにとってこの日は、1年365日の中で、誕生日以外で、最も思い入れの深い日の1日。

まずは23年前。

1987年7月20日。

あれはまだ昭和の時代だった。

オレは高校1年、15歳の夏だった。

アメリカのサンタバーバラに15日間のホームステイに出かけた日。

それから3年後、昭和から平成になった翌年の1990年7月20日。

高校を卒業し、18歳の夏に、オレはアメリカの大学に行くため旅立った。

中でも、この1990年7月20日は、オレの人生で大きい節目の日となった。

いい意味、そして悪い意味において。

この日があったからこそ、オレはアメリカに興味を持ち、大学をそれから8年後だけど卒業して、卒業後はアメリカ以外の場所に目を向け興味を持つようになった。

またこの日があったからこそ、その後のオレの人生は安定とは程遠く、紆余曲折があり、20年後、38歳の夏になっても、自分の人生の本当の意味が、よく分かっていなく、ある種、日本同様、「失われた20年的迷走」を続けている。

少なくとも、この日があったんで、20年経っても結婚せず、子供も持たず、新しい仕事だって30代後半にして3年続いたけど、じゃあ、本当にやりたい仕事だったか、そりゃ、確かにそうだと思うが、

それが果たして自分の人生の意味になるものだったかといえば、残念ながらそうじゃなかった。

なんでなのか、3年、正確には2年9ヶ月で、30日にピリオドを打たんとしている。

そんな20年後の姿を、その当時すでに見ていた人がいた。

しかも他人のそれをだ。

オレのオヤジだった。

1990年7月20日。

夏の昼下がり、オレは育った埼玉の真ん中の街を後にし、アメリカに旅立つ。

それとともに、この日オレは、オヤジを殴った。

そして蹴った。

後にも先にもオヤジをどついたのは、この時だけだ。

昼下がり、スーツケースにはやる思いの全てを詰め込んで、下に降りようとしていたら、突然、階段をオヤジが登ってきた。

階段を登ってきたオヤジは、サッカーのゴールキーパーのような、ディフェンスの構えをしだした。

そして、

「ここからおまえを通さん!さあ、チケットとパスポートを渡すんだ!」

オレは何のことか分からなく、ニヤニヤしていたのか、ポカンとしていたのだと思うが、

そうしていると、

「おまえをこの後、飛行機に乗せるわけにはいかない!おまえはこの後も部屋に残り、日本での進学と就職を考えるんだ!」

でもオレはすぐに我に返った。

何せ当時は、今のようにEチケットなんてない時代。

出発の2時間前にチェックインを済ませないと、飛行機に乗れないような時代だ。

いつまでもそんなのに付き合っていたのでは、飛行機に乗り遅れてしまう。

そう思うと、さすがのオレも業を煮やしたその瞬間。

右ストレートがオヤジの顔面にヒットした。

前に傾くオヤジ。

つかさず、金的にケリをくらわした。

カウンターだった。

全ては10秒も経たないうちに決着がついた。

ノックアウトして前に倒れている親父の横を、重たいスーツケースを持って通りすぎ、階段の前で後ろを振り返り、

「オレは早くアメリカに行きたいんだ!」

そういうと、階段をスーツケースを持って降りた。

階段を降り、玄関に向かってスーツケースを引っ張っていると、

後ろから突然、腰を引っ張られた。

その手は腰を引いた次の瞬間、左足をつかみそのまま引っ張る。

ふいに後ろを振り返ると、オヤジだった。

まさにバカ息子の父親が、ターミネーターになった瞬間だった。

そのままもみ合いになり、台所までもつれる。

台所にぶつかった瞬間、一瞬にして、オレは台所包丁をつかんだ。

それをオヤジに向けて振り下ろしたのか、はたまたそのまま突進して刺し違えたのかはよく覚えていないが、とにかく、その次の瞬間、オレは今まで感じた事のない力の手の握りを感じた。

オフクロだった。

オフクロが渾身の力を込めて、オレの手にあった包丁を放した。

その時、

「そんなことをしては、アメリカにだって行けないよ!」と言われたからなのか、

あるいは、何も言われず、ただ、一瞬、間が空いたからなのか。

オレは素早く立ち上がり、靴を履いてスーツケースを持って、そのまま、外へ出て行った。

その後は、育った我が家に振り向く事もなく、そのままアメリカに旅立った。

オレにとっての、7月20日は、そんな日だ。

後日談といっても、今から数年前になるけど、オフクロから聞いた。

あの日、オレが出て行ったあの後、オヤジは一人とぼとぼと部屋に戻り、しくしく泣いていたという。

それまでは、たがが、息子がアメリカに行くのを、力ずくで阻止しようとしただけだと思っていたが。

そういえば、たまに実家に帰ってもオヤジはオレに挨拶するだけ。

あとは、すっと自分の部屋に戻ってしまう。

よく聞いてみると、

あの時、力ずくで阻止できない事を、今でも大失敗として悔やんでいるという。

それが子育ての全てではないと言っても、減点方式の昔の人にとってみれば、それは全て。

「一事が万事と言うよりは、一時が億時」のような価値観。

そんな日本人的セメント式の価値観は、70歳を越えた今でも大きなトラウマとなって残っているという。

オレとは全く違うメンタリティを持った人だったから、結果としてあの夏の日、ああなった。

それから20年経ち、外に出たら今の18歳の息子を持つお父さんらに多分、オヤジは「バカじゃないか。」って言われるだろう。

でも、あの時、阻止しなければ、20年後のオレは今のような姿になる。

そう子育てしたくない。

その時代から、オヤジはそう見ていた。

20年後、

オヤジの阻止した意味が、今、的確となっている。

バカなオヤジにも先見性があったのだ。

今、そんなオヤジは日本のどこ探してもいないのかもしれないが、20年前はいたのだ。

人生決して後戻りは出来ないけど、このエピソードを無駄にせず、誰かに伝えて、バカなオレの二の舞は作りたくない。

またオレは7月20日、そんなエピソードがあったからこそ、38歳になっても、子育てがある種のトラウマとなって、子供を持とうとしないのか。

その2つの思いがしてならない。