ビーセオリー の 川崎 裕子 です



 

1995年 1月17日 午前5時46分



今から15年前



この日は皆様なにをしてらっしゃいましたか?


関西に住んでいた方なら、決して忘れられない日。。。





私は社会人で今と同じ宝塚に住んでいました。


しかし実はこの日、私は、長野県のスキー場で地震のことを知りました。


たまたま宿泊していたロッジにテレビがなかったのですが、


ロッジの奥様が、宿泊名簿に書いた私の住所を見て、


「関西で大きい地震があったみたいですよ!」と教えてもらったのです。



でもスキー場ではテレビも無く、

状況が全くわからず、大きいと言っても、

その時はあそこまで大きいとは思ってもみなかった私でした。


関西が大変になってることも知らずお昼までスキーをして、

でも気になって、自宅に電話したけど、繋がらない!

近所に住んでいた祖父母宅にかけても、ベルはなっても誰もでない!

神戸に住んでる一人ぐらしの親戚に電話してもつながらない!



自宅→祖父母宅→親戚 と休憩ごとに繰り返し何度も電話して

かける毎にだんだん不安になってきて、

一回一回祈る思いで電話をかけていました。


考えなくていいことまで考えたりして、

そして今から思えば奇跡的に、

避難所からたまたま着替えなどを取りに帰って来てた

神戸の親戚に繋がったんです


そのとき、 

「一人でも身内が生きていて良かった」と思ったことを覚えています。 


その後も自宅と祖父母宅には全く繋がらずでした。



私はその日に夕方の便の飛行機で帰る予定にしていて、


前日に電話で伊丹空港まで父が迎えにきてもらうことになってたんです。




空港までの車の中で、ラジオから流れてくるニュースで覚えてるのは


「西宮市の新幹線の高架が落ちた、阪神高速が倒れた」など

想像できないようなニュースばかりで、


伊丹に着いて、私はいったいどこへ向かえばいいんだろう?


とりあえず自宅まで帰って、居なければ避難所なんだろうけど

避難所ってどこ?


姉の部屋はベット付近に倒れてくるものがないから

家がつぶれてなければ大丈夫!とか


両親の寝室はタンスに囲まれてるから、下敷きになってないかな?


とか本当色んなことを思い不安を抱き、飛行機に乗り込みました。



飛行機の中では、不思議なほど地震のことには全くふれず、


大阪市内の上空を飛んでた時

神戸方面の空を見ると、

白い煙がいくつも上がってたのが目に焼きついてます!


伊丹空港に近づくとブルーシートがかかった家もいくつもあって、

そのとき初めて 大変なことが起ったと実感した瞬間でした。



そして飛行機から降りて、

父が迎えに来てくれると言っていたけれど、

到着ロビーにはもちろん父の姿はなく、

とりあえずタクシーの列に並ぶことにしました。


1時間、2時間が過ぎて、もちろんタクシーはくるはずもなく、

途中家族や仲間とで会って、抱き合ってる人とかもいて

一人抜け、二人抜け・・・・


不安が増して、私もタクシーの列から外れて

歩いて帰ろうかどうしようかと思ってキョロキョロしてたら

ふと向うの方から父の姿が・・・・


これまた奇跡で・・・父と会うことができたのです。


父は混むだろうと察し、飛行機が17時半到着にも関わらず

お昼過ぎに出発してくれたみたい。


そして車に乗って家に向かったものの、

どこも大渋滞。

結局家に着いたのは、夜の12時頃でした!


家ではなかなか帰ってこない、父と私を心配して

警察まで電話したそうです。


父には、私のために約12時間も車を運転してくれてたことに本当感謝。



家に帰ると、祖父母も私の家にいて、ホッとしました。



私の部屋は何かが倒れてか、ドアが開かず、

しばらくしてから、ドアをこじ開けて、入ってみると

ベッドの上は、布団が見えないぐらい物が散乱していて

私が、そこにいたら確実に大怪我してたようです。

(結果いなくて良かったみたい)



それから自宅より上にある小学校の石垣が崩れる可能性があると

我が家のある地域が避難勧告に!


1ヶ月弱ほど体育館での避難生活を経験しました。



そこから父と毎日車で2時間かけて会社に通い、

避難所ではなかなかお風呂に入れないので、

会社の帰りに、父と大阪市内の銭湯へ行ったり、

会社が中之島のホテル隣接のオフィスだったので、

ホテルでシャワーを浴びさせてもらったりしました。


不自由な生活はしましたが、それも今となれば良い経験です。



丁度地震のあった頃は大阪ではバーゲン真っ最中。

大阪はそれ程の被害は無かったので、

みんな綺麗な格好をして、バーゲン袋を持ってる若者がたくさん!


その状況にすごいカルチャーショックを感じたのを覚えています。


すぐ近くでは、家もなくなって、テント生活をしてる人がいたり、

水が無い、火が使えない、食事もしっかり食べれない状況なのに

あまりのギャップに本当ショックでした。



大好きな食器も沢山壊れ、

(割れなかったのは、モロゾフのプリンのコップだけ)


しばらく物欲もなくなってたこともありました。




震災から15年


倒壊した建物も新しくなり、

被害の大きかった住宅地は街ごと綺麗になって、

復興が終わってるように見えますが、

それは表面的なこと!


震災によって、

住む家をなくした人

大事な人を亡くした人

仕事を失った人

その他にも、色んな思いをもって

心の傷は癒されてないこともあるのでしょうね。



天災は避けようがありませんが、

今生かされてることに感謝して、

明日からも一日一日できることから頑張っていきたいです。





震災で亡くなられた、6,434名の方々にご冥福をお祈りいたします。