第三夜
神棚
「お前が部屋にこんなもん飾るなんてなあ」
久しぶりに一人暮らしの弟雅史を訪ねた兄の真一は、呆れたようにいった。
「兄さん、そういうのは飾るじゃなくて、祀るっていうんだよ」
そう訂正する雅史に、
「どっちだっていいが、こんな狭いアパートに、不釣合いだろう、こんな大きなもの。第一、よく大家が文句言わなかったな。壁や柱に釘の痕が残ったら、普通は大目玉だろうに」
「神棚は例外なんだってさ」
「へえ」
合理主義、無神論者、完全な理系で宗教はおろか、飯を食うときにすら手を合わせようともしなかった雅史が、まさか狭い室内に神棚を祀り、毎朝拍手を打っているなどとは、幼いころから知っている兄だけでなく、親類友人知人の誰もが、驚くに違いない。
「まさか、変な宗教団体に、高額で売りつけられた代物とかじゃねえだろけうなあ」
兄の心配を一笑に附した弟は、
「ちゃんとした神社で、適正価格で購入したものだから、心配には及ばないよ。それに、僕がいかがわしい宗教団体なんかに参加するような人間じゃないってことは、兄さんが一番よく分かってるだろ?」
まったくそのとおりだ。
冷徹な合理主義者の一面は、崩さず保持しているようで、真一は少しホッとした。
この日真一が弟を訪ねたのは、しばらく顔を見ていなかったから様子を見に来たのと、もうひとつ用件があったからだ。
大学の研究室に残り、貧しい生活を強いられている弟のことを一番心配しているのは、やはり母親だ。
しかしその母は最近体調が優れず、病院と自宅を行き来している状態だった。
父は父で仕事を持ちながら母の看病もせねばならず、必然的にその役割は真一に回ってくる。
そのついでに、ちょっとした用事を頼もうと思っていたのだ。
週末、妻子を連れて遊園地に行く約束をしていたのだが、急な仕事が入って行けなくなった。
雅史に代役を頼もうと思ったのだ。
「しようがないな、じゃあ、一万円で引き受けるよ」
「お前、兄貴から金取るのか?」
「だって、せっかくの休日をお守りに費やすんだぜ。一万円くらい安いもんじゃないか」
苦笑しつつ、真一は財布から手の切れそうな新札を取り出して弟に渡し、
「じゃあ、かみさんには話しとくから、よろしく頼むよ」
と告げ、その場を辞した。
その後姿を見送る雅史の表情は、どこか力なく儚げだった。
日曜日の夜、突然真一の妻が、
「ねえ、雅史さんいつの間に宗旨替えしたの?」
と訊いてきた。
「宗旨替え?何のことだい?」
「だってえ」
今まで、義弟がおみくじやお守りなどに、興味を持つシーンなど、彼女は見たことが無かった。
ところが、彼は兄嫁が甥と姪を連れてくるよりもかなり早く待ち合わせ場所に到着し、近くの神社でお札やお守りを買い求め、参拝も済ませていたというのだ。
しかも、
「あたしたちの分まで、お守り買ってくれてたのよ」
それを聞いた真一は、さすがに驚いた。
「そりゃあ確かに宗旨替えだよなあ」
しかも三人の干支まで覚えていてくれたという。
雅史の失踪を報されたのは、それから数日後のことだった。
大学の研究室を無断欠勤している。
実家にそう連絡があり、真一は会社を休んで大学とアパートを訪れた。
上司である教授は、
「人間関係のトラブルなんか、勿論ありませんよ。それどころか、彼の雰囲気が最近段々良くなってきたものだから、若き人気講師になってもらうべく、推薦の準備をしていたくらいでして」
その言葉に、嘘はなさそうだった。
ついで、同じ研究室に勤務する他の研究生にも話を聞いたが、特に変わった様子はなかったという。
真一は途方にくれた。
(母さんの具合が悪いというのに、どうして心配なんかかけるんだ)
何の成果も得られず帰途につこうとした真一に、声をかけた者がいる。
若い女性で、同じ研究室に勤務しているのだった。
「あたし、ちょっと気になっていることがあるんです」
「もしかして、神棚とかお守りのこと、じゃないですか?」
真一が訊ねると、女性は凍りついたように、その場に立ち尽くした。
「私も弟がどうして突然宗旨替えしたのか、気になっていたんです。何か妙な宗教団体にでも参加したんじゃないかと思いましてね」
真一は、女を探るように見詰め、そう告げた。
(この女は、何か知っているんだ)
「雅史さんは、別に宗旨替えしたんじゃないと思います。あの、彼の自宅のパソコンは、中身をご覧になりましたか?」
「いや、パスワードが設定されていて、開けなかった」
すると女はメモを差し出し、
「このパスワードで開くと思います。そこに、何かメッセージのようなものが残されているはずです」
慌しい素振りでそう告げると、女はそそくさとその場から立ち去った。
雅史のパソコンは確かに開いた。
そしてデスクトップに、真一宛のメッセージが残されていたのだ。
「兄さん、美也子からパスワードを受け取って、パソコンを開いてくれたと思う。僕はいずれ、必ず戻るから。母さんの具合が悪いのに、身勝手なことをして、と腹立たしい思いをしているかもしれないけど、母さんは、何も心配していないはずだから。兄さん、僕は、信じられない数式を解き明かしたんだよ。それは、神代に導かれるための数式だったんだ。だから、ただ数式を解いただけでなく、あちらに行っても恥ずかしくないよう、下準備をしていたのさ。美也子も行きたがっていたが、まずはどんなところか僕が行って確認しておかないとね。これは、どうやら母さん、かねてから分かっていたらしいんだ」
お袋が分かっていた?どういうことだ?
雅史は、もしかしたら心を病んでいたのではないだろうか。
そんな不安が鎌首を擡げたその時だった。
頭上から何か、奇妙な音がする。
顔を上げた真一は、背筋がゾッとした。
あの神棚の、小さな扉の奥から、実に雅な雅楽の音色が流れこぼれだしている。
すると、携帯がせわしく震えた。妻からだ。
「あなた、早くご実家に。お母様が大変なの」
全身から血の気が退くのを感じながら、真一は雅史の部屋から逃げ出した。
「真実はひとつ。雅な歴史の内に」
二人の息子に名づけた理由を語った、若き日の母の顔を思い出しながら、
(俺も、雅史の失踪事件の一部なのか?)
払拭できない黒い不安を抱えたまま、真一は実家へと急いだ。
神棚
「お前が部屋にこんなもん飾るなんてなあ」
久しぶりに一人暮らしの弟雅史を訪ねた兄の真一は、呆れたようにいった。
「兄さん、そういうのは飾るじゃなくて、祀るっていうんだよ」
そう訂正する雅史に、
「どっちだっていいが、こんな狭いアパートに、不釣合いだろう、こんな大きなもの。第一、よく大家が文句言わなかったな。壁や柱に釘の痕が残ったら、普通は大目玉だろうに」
「神棚は例外なんだってさ」
「へえ」
合理主義、無神論者、完全な理系で宗教はおろか、飯を食うときにすら手を合わせようともしなかった雅史が、まさか狭い室内に神棚を祀り、毎朝拍手を打っているなどとは、幼いころから知っている兄だけでなく、親類友人知人の誰もが、驚くに違いない。
「まさか、変な宗教団体に、高額で売りつけられた代物とかじゃねえだろけうなあ」
兄の心配を一笑に附した弟は、
「ちゃんとした神社で、適正価格で購入したものだから、心配には及ばないよ。それに、僕がいかがわしい宗教団体なんかに参加するような人間じゃないってことは、兄さんが一番よく分かってるだろ?」
まったくそのとおりだ。
冷徹な合理主義者の一面は、崩さず保持しているようで、真一は少しホッとした。
この日真一が弟を訪ねたのは、しばらく顔を見ていなかったから様子を見に来たのと、もうひとつ用件があったからだ。
大学の研究室に残り、貧しい生活を強いられている弟のことを一番心配しているのは、やはり母親だ。
しかしその母は最近体調が優れず、病院と自宅を行き来している状態だった。
父は父で仕事を持ちながら母の看病もせねばならず、必然的にその役割は真一に回ってくる。
そのついでに、ちょっとした用事を頼もうと思っていたのだ。
週末、妻子を連れて遊園地に行く約束をしていたのだが、急な仕事が入って行けなくなった。
雅史に代役を頼もうと思ったのだ。
「しようがないな、じゃあ、一万円で引き受けるよ」
「お前、兄貴から金取るのか?」
「だって、せっかくの休日をお守りに費やすんだぜ。一万円くらい安いもんじゃないか」
苦笑しつつ、真一は財布から手の切れそうな新札を取り出して弟に渡し、
「じゃあ、かみさんには話しとくから、よろしく頼むよ」
と告げ、その場を辞した。
その後姿を見送る雅史の表情は、どこか力なく儚げだった。
日曜日の夜、突然真一の妻が、
「ねえ、雅史さんいつの間に宗旨替えしたの?」
と訊いてきた。
「宗旨替え?何のことだい?」
「だってえ」
今まで、義弟がおみくじやお守りなどに、興味を持つシーンなど、彼女は見たことが無かった。
ところが、彼は兄嫁が甥と姪を連れてくるよりもかなり早く待ち合わせ場所に到着し、近くの神社でお札やお守りを買い求め、参拝も済ませていたというのだ。
しかも、
「あたしたちの分まで、お守り買ってくれてたのよ」
それを聞いた真一は、さすがに驚いた。
「そりゃあ確かに宗旨替えだよなあ」
しかも三人の干支まで覚えていてくれたという。
雅史の失踪を報されたのは、それから数日後のことだった。
大学の研究室を無断欠勤している。
実家にそう連絡があり、真一は会社を休んで大学とアパートを訪れた。
上司である教授は、
「人間関係のトラブルなんか、勿論ありませんよ。それどころか、彼の雰囲気が最近段々良くなってきたものだから、若き人気講師になってもらうべく、推薦の準備をしていたくらいでして」
その言葉に、嘘はなさそうだった。
ついで、同じ研究室に勤務する他の研究生にも話を聞いたが、特に変わった様子はなかったという。
真一は途方にくれた。
(母さんの具合が悪いというのに、どうして心配なんかかけるんだ)
何の成果も得られず帰途につこうとした真一に、声をかけた者がいる。
若い女性で、同じ研究室に勤務しているのだった。
「あたし、ちょっと気になっていることがあるんです」
「もしかして、神棚とかお守りのこと、じゃないですか?」
真一が訊ねると、女性は凍りついたように、その場に立ち尽くした。
「私も弟がどうして突然宗旨替えしたのか、気になっていたんです。何か妙な宗教団体にでも参加したんじゃないかと思いましてね」
真一は、女を探るように見詰め、そう告げた。
(この女は、何か知っているんだ)
「雅史さんは、別に宗旨替えしたんじゃないと思います。あの、彼の自宅のパソコンは、中身をご覧になりましたか?」
「いや、パスワードが設定されていて、開けなかった」
すると女はメモを差し出し、
「このパスワードで開くと思います。そこに、何かメッセージのようなものが残されているはずです」
慌しい素振りでそう告げると、女はそそくさとその場から立ち去った。
雅史のパソコンは確かに開いた。
そしてデスクトップに、真一宛のメッセージが残されていたのだ。
「兄さん、美也子からパスワードを受け取って、パソコンを開いてくれたと思う。僕はいずれ、必ず戻るから。母さんの具合が悪いのに、身勝手なことをして、と腹立たしい思いをしているかもしれないけど、母さんは、何も心配していないはずだから。兄さん、僕は、信じられない数式を解き明かしたんだよ。それは、神代に導かれるための数式だったんだ。だから、ただ数式を解いただけでなく、あちらに行っても恥ずかしくないよう、下準備をしていたのさ。美也子も行きたがっていたが、まずはどんなところか僕が行って確認しておかないとね。これは、どうやら母さん、かねてから分かっていたらしいんだ」
お袋が分かっていた?どういうことだ?
雅史は、もしかしたら心を病んでいたのではないだろうか。
そんな不安が鎌首を擡げたその時だった。
頭上から何か、奇妙な音がする。
顔を上げた真一は、背筋がゾッとした。
あの神棚の、小さな扉の奥から、実に雅な雅楽の音色が流れこぼれだしている。
すると、携帯がせわしく震えた。妻からだ。
「あなた、早くご実家に。お母様が大変なの」
全身から血の気が退くのを感じながら、真一は雅史の部屋から逃げ出した。
「真実はひとつ。雅な歴史の内に」
二人の息子に名づけた理由を語った、若き日の母の顔を思い出しながら、
(俺も、雅史の失踪事件の一部なのか?)
払拭できない黒い不安を抱えたまま、真一は実家へと急いだ。