第二夜

クレヨン

何の変哲もない、いや、かえって安っぽいクレヨン。
それはそうだ。
百円均一の店で買った、十二色のくれよん。
それに薄いスケッチブック。
何か描こうかと決めた買ったわけじゃない。
定年退職した森元にとって、時間は溢れかえる寂寞でしかない。
仕事一途、無趣味で通してきた。
会社での最後の日、花束をもらって帰宅した自宅は、ただの空洞だった。
(俺は一体、何年この空洞に住まい、そしてこれからどれだけの時間を住み続けるのだろうか)
そう思った瞬間、全身が凍りついた。
妻が署名捺印した離婚届を置いて出て行ったのが、いつだったのかも思い出せない。
結婚して独立した息子夫婦も娘夫婦も、離婚後まったく立ち寄らなくなってしまった。
妻が強行に離婚した理由は、一年後に分かった。
あっさりと再婚した。
ずっと不倫していたことを知ったのは、近所の話し好きの奥さんから得た情報だった。
「あなたも、人がいいというか、一生懸命働いている間、女房が寝取られているのにも気づかないなんて、まったく気の毒だよぉ」
こめかみの辺りが、冷凍されたような気分だった。
それでも、仕事に没頭した時間の無駄。
森元は退職した翌日から、何をどうしていいのか分からない自分を見出した。
食事は外食かコンビニ、スーパーの弁当。
家ではロクに家事もやってない。
必要に迫られて肌着やシャツを洗濯するくらい。
家に人がいないから、あまり掃除の必要性にも迫られなかったのだ。
思いついて掃除機をかけてみたが、そのうるささに、すぐさまスイッチを切ってしまった。
今まで入ろうとしたこともなかった、無人の子供部屋に入ってみた。
何もかもが処分され、無味無臭の空間が茫漠と広がっているだけだ。
(空しい。こんなに人生って、空しいもんだったっけ)
会社に嘱託として残れる自信があった。
それだけの功績があると。
ところが、長年に亙る不景気により、会社の芯は疲弊し、彼の居残りを許すほどの余力が残っていなかったのだ。
(家にいても仕方ない、職安にでも通うか)
翌日から、ハローワーク通いが始まった。
(今は、職安とは言わないのか。それにしても、随分近代的になったんだな)
どこを見てもパソコンだらけだ。
不思議な気がしたのは、若者の姿が多いこと、働き盛りと思われる世代の男性も多いことだ。
(なんだ、この人余りの風景は)
森元と同世代の者がいないわけではないが、圧倒的に隅に追いやられている気配だ。面接してみたら案の定、
「結論からいって、あなたに紹介できる仕事は皆無に等しい」
技術屋とか職人ならいざ知らず、簿記の資格を取って経理畑一筋でやってきた人間など潰しが利かない上に、代わりの若いのは幾らでもいるのだ。森元は塩漬けの菜っ葉にでもなった思いで、ハローワークを後にした。
その帰途だった。
立ち寄ったスーパーの二階に百円ショップを見出し、クレヨンとスケッチブックを買ったのは。


自宅近くの公園のベンチに座り、辺りの景色を眺めてみた。
(何の感慨も湧かない)
写生でもしてみようかと思ったのだが、絵を描くというのは、ただ目の前にある風景を紙面に映そうとしてもできるものではないのだと、森元は思い知らされ、更に憔悴して帰宅した。
この家に、特別な思い入れがあるわけではなかった。
家族が欲しがったから、そのために買った。お陰で森元は、趣味を持とうにも経済的余裕がそれを許さなかったのだ。
(散々使い古された挙句、ドブに捨てられたようなものだ。リサイクルも利かない、完全なポンコツ親父。だから捨てられたということか)
皮肉な笑みを浮かべ、ゴロンと横になった。
天板の木目を見詰めつつ、自分がひどい老眼であることに気づいた森元だった。
汚くくすんだ、天板を眺めながら、
(俺の人生って、一体なんだったんだ)
目を閉じると、頬を涙が伝った。
不意に、瞼の裏に不思議な光景が浮かび上がったのだ。

森元は、その光景をスケッチブックに描き写し始めた。
安物のクレヨンをせっせと走らせた。
(どこで見た光景だったろうか)
記憶を辿ってみたが、思い出せない。しかし、瞼に焼きついた風景は鮮明で、森元の手にしたクレヨンは、妖精が乗り移りでもしたかのように、軽快に紙面を踊った。
出来上がった絵を、まじまじと見詰めていた森元は、
(これは!)
ハッと目を見開いた。
(この道は、そうだ、この道の先に、あれが……)
何に気がついたのか、森元は描き終わった絵を剥がし、白紙の横に並べて続きを描き出した。
(この先に、牛乳工場があって、その裏には山の頂上に繋がる、細い道がある。その上に雑木林があって、その先には広い広い牧草地があった)
三枚目、四枚目と描き続けるうちに、森元は自分が思いついた景色の正体に気づき始めていた。
(この道を真っ直ぐに行くと、栗林があった。その隅に……)
群生する萩。
秋になると、目を見張るほどの紫の広場。
その向こうに、その向こうに……。
(何かがあったはずだ、何かが……)
どうしても思い出せない焦燥に、森元は髪を掻き毟って身悶えた。
(この風景の向こうに、思い出さなくてはならない何かがある!)
意を決し、森元は僅かな荷物と、スケッチブック、クレヨンを携えて旅に出た。
瞼の裏に浮かんだ、懐かしい景色を追い求めて。
実家は遠に失われ、母は彼が幼い時に亡くなった。
父親は後に再婚したが、既にこの世にいない。兄弟がいなかったので、彼は離婚したことで、本物の孤独になっていたのだ。

描いた光景は、彼の生きる一縷の望みだったのだ。

記憶を頼りに訪れた町は、六十年近く前、彼がまだ三歳か四歳のころ、両親に連れられて、旅行に来たはずの土地だった。
緑の美しい丘陵地。
(ずっと忘れていたのに、どうして急に思い出したのだろうか)
山々の紅葉は、夕映えに輝いていた。
(そうだ、このホテルだったはずだ)
宿泊した記憶の中の旅館は、既に近代的なホテルに建て替えられていたが、場所は間違いないのだ。
森元はチェックインだけ済ませ、駆けるように山道を登った。
牛乳工場は倒産してなくなり、その後別荘地になったが、バブル崩壊で廃墟の群像となっていた。
だが、その先に栗林と萩の群生は、いまだに残っていた。
その先にあるものは……。
走り続けていた森元は、はたと足を止めた。
はっとした。
(何もかも、思い出したぞ)
父が、旅館で仕事上の付き合いのある人物と偶然出くわし、彼は母と二人で散歩に出たのだ。
そして、ここまで歩いてきたのだ。
(この断崖に)
母は、自殺だと思われていたが、実は違った。
(あの男に、襲われ、犯されようとして逃げた。俺を護るために、男をこの崖に、惹きつけたのだ)
あの男とは、森元の離婚した妻の父、彼にとっての義父。
どうして今まで、忘れていたのだろうか?
(何もかも、クレヨンが思い出させてくれた)

旅の帰途、森元はかつての義父の元を訪れていた。
自らの完全犯罪を信じていた男は、まだのうのうと長寿を保っていた。
その恥知らずの脳天を、母親の墓石で叩き割った森元は、満面に笑みを浮かべた。
この男の血を引く、何人もの人々の命、根絶やしにするという目標ができた。
(生き甲斐があるというのは、いいものだ)
復讐という快楽に身を委ねる決心をした森元は、愉悦に満ちた面持ちで、次の場所へとに旅立っていった。
百円均一ショップで買ったクレヨンとスケッチブックで描いた一枚目の絵を、元義父の遺体の上に残して。