第一夜

砂時計


骨董やアンティークには少しも興味がなかったとみずえが、ついついその店に引きずりこまれるように入ってしまったのは、ショーウィンドウの片隅に見出した、小さな砂時計を見つけたからだ。
まるで忘れ去られ取り残されたように置かれた、古びた木製の砂時計。
そんな地味で取り立てて値打ちもなさそうなものに惹かれたのは、
(まるで私そのもの)
のような気がしたからだろうか。
薄暗い店内には、
まるで商売っ気のない老婆がひとり、目を眇めてこっちを見ている。
「あのお、ショーウィンドウの砂時計……」
と言いかけたみずえの脇をすり抜けるように、一陣の風が巻き起こった。
何かが店内を走りぬけたのだ。
みずえはギョッとした。
老婆の膝の上に、いつの間にか黒いフサフサしたものが座っている。
猫だ。
毛の長い猫。
薄暗い店内で、その両目がキラキラと眩く輝いている。
青玉と碧玉のヘテロクロミアだ。
美しすぎる瞳を持った、長毛の黒猫の姿に、思わずみずえは見蕩れてしまった。
「初めてのお客様だから、サービスにこの砂時計に纏わるお話をプレゼントしようと思うが、聴きたいかい?」
「この砂時計?」
みずえは仰け反った。
いつの間にか老婆の手の平に、あの砂時計が乗っていたのだ。
(まさか、あの猫が?)
「どうするんだい?聴くかい?それとも……」
「聴かないと、売ってもらえないんですか?」
「そんなことはないさ。ただ、後になって聴いておけばよかったと、後悔しなければいいがと、そう思ってねえ」
老婆の言葉に、不気味な何かを感じ取ったみずえは、警戒心が高まり、
「あ、あたし、やっぱりいいです」
逃げるように店から飛び出していった。
「あらあら、初めての客だったのにねえ。逃げ出してしまったよ。残念だねえ」
老婆はそう黒猫に話しかけながら、その喉元を指先で優しげに撫でた。
気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす猫。
「せっかくだから、あなたにだけ、お話ししましょうかしら。この砂時計の秘密をねえ」
ゆっくりと語り始めた。


「この砂時計はね」
ロッキングチェアに揺られながら、年老いた女が、幼い娘(恐らく孫だろう)に話して聞かせている。
「お前が願うなら、五分間だけ、時間を後戻りさせてくれる、不思議な砂時計なのだよ」
孫娘は、
「おばあちゃん、五分だけなんて、何にもできないわ。もっと長い時間でないと」
と反論するが、そのこましゃくれた態度が、祖母にとっては尚更可愛いのだろう。
「あたしも、最初はそう思っていたよ。でもね、そのうちに、五分という時間のありがたみが分かる時がきっとくるわ。だから、持ってなさい。必ず役に立つから」
少女はしばらく考え込んでいたが、
「分かった。でも、おばあちゃんは、この砂時計、もういらないの?」
心配そうに、祖母の顔を覗き込んだ。すると老婆は、嬉しそうに微笑み、
「あたしはもう、沢山の『五分』を楽しんだから、もういいのよ。五分はいいものよ。朝、起きなさいっていわれた時、もう五分だけ眠るとか、テストで時間がなくなった時、もう五分だけあったら全部解けたのに、とか。大好きな人と、さよならする時間、あと五分だけ一緒にいられるようにとかね」
説明を聞いているうちに、少女の瞳が、期待にキラキラと輝きだした。が、
「でもね」
と祖母は急に真顔になり、
「決して悪事にだけは使ってはならないよ」
と告げた。
「悪事って、悪いこと?五分寝るのも、悪いことじゃないのかな」
祖母は笑って、
「いいえ、多少自分のために使う分はいいの。もっと悪いことよ。人の沢山の迷惑をかけたり、人を苦しめたりはしてはならないの。いい?もしその約束事を破ったら、恐ろしい罰が待っているのだからね」
少女には、まだ祖母の言葉の意味が分からなかったが、自分が将来的に、
(悪い人間になるはずがない)
という幼さゆえの自信があり、祖母から砂時計を引き継いだのだ。
少女の名は、絵夢といった。

小学校から中学校にかけて、ふと気づくと、いつも絵夢の枕元には砂時計があった。夢うつつに、後五分のまどろみを楽しんでいたのだ。そのお陰で彼女はストレスの少ない少女時代を過ごしたのかもしれない。
学校に遅刻しそうになってもあと五分。
休み時間に遊びすぎてもあと五分。
遊園地にいってもあと五分。
高校に入った絵夢には恋人ができた。
彼と一緒にいる時間が何をおいても大事で、ずっと一緒にいたいと思ったが、それは現実が許さない。しかし彼女には、
「もう五分だけ」
のご褒美が常にあった。
長じて彼女は、結婚を意識する男性と巡り合う。
しかし彼は忙しいビジネスマンだった。
デートする時間はいつも短くて日数そのものが少ない。
「僕が忙し過ぎるせいで、中々女性とは長続きしなくて、結婚もできなかったんだ」
だが、彼と絵夢との関係は良好に進んだ。何故なら、
「砂時計がくれる、もう五分のご褒美があるから」

やがて二人は結ばれ、子宝にも恵まれた。元気な男の子が生まれ、全てが順風満帆。
「それもこれも、おばあちゃんがくれた砂時計のお陰」
その秘密は、誰にも明かしていない。
息子が中学に入る頃、それまでの幸せな暮らしを一変させる事件が起こった。
夫の様子がおかしい。浮気を疑った絵夢に届いた絶望的な報せは、
「あなたの夫が不正を働き、刑事告発した」
という上司からの通告だった。
生真面目と信じていた夫が、まさかの横領。動転する彼女の前に現れたのは険しい顔つきの刑事。夫の居場所を知らないかと、執拗に責める。それが絵夢の心を虐げることとなった。
(こんなひどいことになってしまっては、後五分のご褒美も、何の役にも立たない)
悔し涙が頬を濡らした。
警察の隙を窺うように、夫から電話があった。
「絵夢、僕だよ。迷惑をかけてすまない。だけど信じて欲しい。これは濡れ衣なんだ。僕は無実だ。罠なんだ。くそお、あと五分あれば、何とか逃げ出して、真相を突き止めて見せるのに!」
夫の言葉を聞いて、絵夢は迷った。
夫は無実ではないだろうか。もしそうだったら、砂時計を……。
(しかし、それが嘘だったら、約束事を破った私には、恐ろしい出来事が待ち受けている)
子供はまだひとり立ちできない。
夫が捕まり、私が死んでしまったら……。
躊躇する絵夢。その耳元で、
「残念だが絵夢、僕は自分の無実を証明できないようだ」
悲痛な夫の声が。
その瞬間、絵夢の手は砂時計をひっくり返していた。
全身から血の気が退いた。
どんなに恐ろしい罰が……。
だが、二日三日、一週間経過したが、何事も起こらず……。
再び警察官が訪れた。
絵夢は観念した。やはり夫は嘘を、と。
だが、
「先日は大変ご迷惑をおかけしました。先ほどご主人が署に出頭されまして、実際に横領していたのは、ご主人の上司、告発した人物だったことが判明いたしました。ご主人は今、警察に協力して頂いておりますので、代わってわたくしどもが奥様にご報告に参りました」

久しぶりに会った夫は、絵夢を抱きしめ、
「心配かけて済まなかった。それにしても、あの時、どうしてだか、時間が五分だけ延びたような気がするんだが、もしかしてそれは、君のお陰なのか?」
「何のことか分からないけど、わたしは、あなたを信用してよかった。ただそれだけ」
砂時計のことは、あくまでも秘密なのだ。
しかし、思わずひっくり返していた砂時計。
夫が無実でなかったら、どうなっていたのか、絵夢は思わず泣き笑いしてしまった。
それから長い時間が過ぎ、息子は独立して新しい家庭を設け、孫娘が生まれた。
夫は充実した時間を送って定年退職し、それなりに長寿を保って、妻に感謝しつつ他界した。
絵夢は、
「あと五分」
の幸運に感謝しつつ、最期の時を迎えつつあった。
今わの際、枕元に見舞いに来た家族の中から、唯一の孫娘の手を取り、
「いつかきっと、この砂時計が役に立つときがくるから、あなたが持っていなさい」
と渡した。そして、
「私は、もう十分、後五分の恩恵を蒙ったから」
美しいばかりの微笑を湛え、絵夢は旅立った。

「彼女にも、そのチャンスがあったのにねえ」
黒猫の喉元を撫でながら、老婆が嘆息した。

翌日、どうしても気になったみずえは、再びその店を探したのだが、どうしてもアンティークショップを見出すことはできなかった。
携帯が鳴った。
喧嘩別れした彼氏から。
「みずえ、ゴメン、謝りたくて……」
強張っていたみずえの時間も、再びサラサラと流れ出した。