(もし、あの骨董品屋の親父の話しが事実なら、君は、これが手に入れられなかったショックから、自殺するのではないか。私には、そういう懸念があった。死なれでもしたら夢見が悪い。だから、名刺を残してきたのだよ。果たして、ここまで来る勇気があるかどうか。この本に興味を示す若者とは、一体どのようなタイプの人間なのだろうかと。私は期待して待っていた。そして君は、ここまでやってきた。しかも、金を自力で作ってだ。私は立場上、多少は人を見る目に自信があるつもりだ。君は、嘘つきではないと見た。自信をもって断言しよう。君は若いながら、素晴らしい執念、執着心を持っている。それに対しては、敬意を表する。正直なところ、この品を、君に譲りたくなったくらいだ)
「いいかい、彼はこの本を僕に、譲っても良いといい出したんだよ。それを聞いて、僕は震え上がった。いや、勿論下心を持って訪ねていったんだけどね。ただ……」
譲るにしても、当然条件は出された。それも、
「ある意味予測はできたけど、最も恐ろしい条件だったといえる。彼は、やはり甘くはなかった。それどころか」
と彼は言葉を切った。何かを言いかけて止められるのって、聞いている側はとてもそわそわする。
「爺さん、こんなことを言い出したのさ」
(どうだろう、この本の本質を知る者同士、取引をしないかね。この本の前で契約を交わすのだ)
感情の起伏に乏しいと評判だった彼が、大きく身振り手振りを交えながら語る姿は、普段無口で冴えない人が
「実は名優だった」
ことを知ったときの感動にも似た悦びを僕に与えてくれた。
ここに来た経緯や表のことを僕は、すっかり忘れている。
「脅えたよ、その時は。心底怖くなった。そして、悦びに震えもした。こいつの本質を知る者にとって、それ程魅力的な誘惑の言葉はなかった。こいつの前で誓いを立て、契約を交わした者は、もしその約定を反古したり、契約が履行されなかったりすれば、最悪の結果が待っていると伝えられている。ところが、僕って男は、どこまでもひねくれ者にできているらしく、その最悪の結果がどんな事態なのか、とても知りたくて堪らなかった。仮に僕が負けたとしても!」
一息尽こうと、彼は冷めたコーヒーで喉を潤した。青白い顔に、唇だけがやけに赤々として艶かしい。
「それを今ここで明かしては話も終わってしまうから、もう少し辛抱してくれよ。そう、結末を見たくてしかたがなくなったてのは、君にもわかるだろう。確か、君は大のプロレスファンだったよね。超大物同士の世紀の大決戦だったら、何を置いても見たいだろう?僕は大のハードロックファンなんだけど、久々に復活した名バンドのアライブに、いそいそと出掛けていく気持ち、それを何十倍にもしたようなレベルの感覚だったさ。でもね、そのために、命をかける人種だっている。チケットが手に入らないのなら、死んだ方がましだと、本気で思うことだってあるんだ」
わかる。そのとおりだ。どうしても譲れないものを誰しも持っていると思う。
だけど糸山、僕がプロレスファンだなんて、よく知っていたな。
「彼の出した条件というのが」
糸山は、フーッと大きく息をついた。
僕は固唾を呑んで、彼を見守った。それどころか、続きを催促したんだ。
「その条件って、何だったんだ」
その糸山は、促されてとても嬉しそうな表情を見せた。
「良くぞ聞いてくれた。実は彼は、僕が持ってきた五百万と別に、後二年で、更に七百万用意してくれば、無条件で僕に渡そうというのだ。無茶な話しだと思うだろう?でも、それだけの価値が絶対にあるのは間違いない。いや、一億出そうが、百億出そうが、この本の本当の価値を現した事にはならないのさ。金の問題じゃない」
大きく表情が変わり、さっき以上に凄絶な笑みが浮かんだ。のけぞるほどに。だが、不快感はない。不思議だ。
「僕が二年間の辛抱で、精も根も疲れ果てている、と彼は見ていたはずだ。確かに疲労はピークに達していた。でもね、彼の前で殊更に疲れて見せたのも事実なんだ。なぜかというと、出会った瞬間に僕らの駆け引きは始まっていたんだから」
頷くことすら忘れ、僕は黙って聞いている。
「彼もこれを手に入れた以上、威力を試してみたかったんだ。だったら、その提案を利用しない手はない。そして僕らは、誓約の儀式をやったのさ」
「儀式?」
糸山はニンマリと僕の顔を見た。
「そう、儀式だ。二年後の同じ日、同じ時刻、同じ場所での再会を約束した。僕が持って行った五百万円は、彼の自署捺印による預り証と引き換えに渡した。本当は、儀式を執り行った以上、書類はいらないんだけど、彼は筋金入りのビジネスマンだった。そしてまた、新たな僕の受難の日々が始まったんだが、僕には、必らず本を手に入れられると言う、絶対的な自信が芽生え、毎日が楽しくて仕方無かった。それからの僕は、更に節制を重ねた。勿論、会社に内緒でバイトもしたよ。だって、僕の手取り年収二年分の合計でも、七百万に足りるかどうか、心もとなかったからね」
言葉を失なった僕は、糸山の話を聞き続けた。
「そして二年後、僕の体重は、既に四十キロを割っていた。身長百七十八センチの僕がだぜ。脂肪はおろか、筋肉や骨まで細くなったんじゃないかな。何も食わないでいる日もあった。ひたすら、金を溜めるために、絞れるものは絞り尽くした。ただでさえつき合いが悪かったが、忘年会、歓送迎会の類まで全て欠席する姿に、君たちは奇異の念を抱くと共に呆れる思いもあっただろう。しかし、目的を達成するためには、やむを得なかったんだ」
再び糸山が喉を潤すのを見て、僕もマグカップから、すっかり冷えて苦みだけが増した液体を口の中に流し込んだ。
「ところが、敵さんも中々の喰わせ者でね、なんと、僕に対して妨害工作を仕掛けてきたんだよ」
「妨害って、金が作れなくなるようにかい?」
僕の質問は無意識のものだったが、糸山は、大きく頷き話しを続けた。
「そうだ。卑劣な手段だったよ……」
彼の目線が僕から離れ、遠くにやられた。思い出を噛み締めるように。
「状況が状況なだけに、注意力は相当研ぎ澄ましていたつもりだったんだけど、コロッと引っ掛かった。この件に関しては詳しく語りたくはないんだが、まあストーリーテラーとしては、折角聞いてくれてる君を、感動させる努力をしなければならないから、私情を押し殺して、事実のまま告げるとしよう」
ある晩の彼、仕事と別のコンビニのアルバイトが終わって、フラフラとアパートへ帰る途中だった。
一日に一回、売れ残りの弁当か、お握りを食べるだけの生活をしていた彼は、いつも栄養失調の状態で、それが大して苦にならないほどに体が慣れていたという。
アパート近くの公園脇の路上で、会社帰り風の若い女性が、二人乗りのバイクと接触して転倒する所を目撃した。悲鳴が聞こえたが、ブレーキの音は聞こえなかったようだ。
(当て逃げだ)
咄嗟にそう思った彼は、
「ふらつく足を踏み締めて女性に駆け寄った。すぐに救急車と警察を呼ばなくてはと思ったんだ」
彼は冷血漢だと思っていたけど、存外そうでもないようだ。
バイクの連中が、
(おい、当たちまったぜ、ヤベエぞ!)
(暗いから解りゃしねえ、あ、動いてる。死んじゃいねーよ、さっさと行くぞ)
その会話を聞いた糸山は、本気で逆上したのだという。声が小さい事で有名な彼が、隣の駅まで響きかねない怒鳴り声を張り上げたのだ。
「ヴァッッキャローー!!てな感じだったよ」
僕の耳までキーンと響く。臨場感タップリだ。
「でも、バイクの連中は、既に消えた後で、蹲る女性と僕だけが取り残された」
咄嗟に女性に駆け寄り、声をかけた。
「大丈夫ですか、すぐに警察と救急車を呼びますから、ジッとしてて下さい」
女性が顔を上げた。顔を見て、
「ドキッとしたよ。生まれて初めて。あんな美人、見た事がなかった。僕の乏しい表現力では、いい表せないのが残念な位に」
彼女は激痛を堪えてでもいるように、途切れがちにこういった。
「大丈夫です、ちょっと足を挫いただけですから…」
「その口ぶりがまた清楚で愛らしく、僕はドギマギしながら、何を喋ったらいいのか、どこを見ていいのか解らなかった。
「ひ、ひどい奴らですね、あは、あははは、なんてさ」
とても歩けそうになかったから、肩を貸して家まで送って行くことにした。
「勿論、他意はなかったよ。その時の僕は、女にかまけていられる様な立場じゃなかったから。単に善意から、彼女を家まで送り届けたんだし、済んだら直ぐに帰るつもりだったんだ」
彼女のアパートは、彼の部屋ほどではないが、凡そ美女には不似合いな、こじんまりした場所だった。
「詮索する訳にはいかなかったが、彼女の怪我があまり酷そうだったんで、僕は、彼女の両親に連絡することを勧めたんだ。所が、彼女は、顔色を蒼白にしてそれはできない、っていうんだ」
でも、二、三日は動けそうもないくらいの、ひどい捻挫だったという。
電話をすれば済む事だから、代わりにかけようか、と告げたらしいが、悲しそうに首を横に振るばかりだった。
「僕も途方に暮れたよ。放っといて帰ればそれで済む事なのに、僕は彼女の側から立ち去れなくなってた。恥ずかしい話だが、僕は彼女に恋してしまっていたんだ。一目惚れって奴さ。小学校の時に両親を自殺で亡くし、天涯孤独同然に育った僕は、人間不信だった反面、他人との関わり合いや愛情に、本当は飢えていたんだ。会社に就職したのは、メインは生活のためだったけれど、実をいうと、友達や彼女が欲しかったからでもあった」
これまた意外な一面を垣間見せた糸山、それを諦めたのが、この本と出合ったからだというのか?
「でも、親切にして感謝されたことはなかったからなあ、子供の頃から。親のことで、苛められていることの方が多かったよ。だから、嫌われるのを覚悟の上で、勇気を持って彼女を看病した。といっても湿布を買って来て貼って上げたり、食べ物を買ってあげただけなんだけどね」
僕は、糸山の奥底にある悲しみを孤独を知った。
きっと彼は、両親を早くに亡くし、子供時代は周囲から責めさいなまれて暮らしてきたのだ。
だから、他人を信用できなくなり、遠ざけることで自我を護っている反面、人との交流に飢えていたのではないだろうか。
ただ、方法を知らなかった。幼い頃、それを学ぶ機会に恵まれなかったから。
「実は、若い女の人の素肌に触れたのは、その時が生まれて初めてだった。心臓が飛び出すほどドキドキして、老人との契約や本の事さえも、すっかり忘れちまってたよ。彼女は、僕の親切を受け止めてくれ、ポツリポツリと、家に連絡ができない事情を話し始めたんだ」
彼女の名は、美也子という。
父親が事業に失敗し、家を失った揚げ句、蒸発していた。
しかも、まだ就職後間も無い彼女を市中金融からの多額の借金の、連帯保証人に仕立て上げていたのだ。彼女は、実家に帰った母親と別れ、そのアパートでひっそりと一人暮らしをしていた。
地元の就職先を退職し、都内の小さな会社に再就職したのは、借金取りから逃げるためだった。
「だから、自分の居場所を誰にもいえないんだと。いつなんどき、取り立ての連中がやって来るか知れたものじゃないからね」
か弱い女性の立場では、借金取りは、ストーカー並に恐ろしい対象だろう。
「実際、このアパートの住人にも、頻繁に取り立てが来るけど、無関係の僕でも怖く感じるからね」
聞き始めたのが運の尽きだった。
彼の心は次第に彼女に傾き、溺れて行ったのだ。そしてある日、彼女を見舞った後、帰りかけた彼を、美也子が引き留めたという。
「彼女は泣いた。寂しいと…」
彼の胸も詰まった。
「その日、とうとう僕たちは、夜通し一緒にいることになった。初めて、美也子を…いや、女を抱いた。君は疑うだろうけど、僕はその日まで童貞だった。女を知らなかったんだよ。女性の扱い方なんて、当然解る訳が無い。そんなぎこちない僕を彼女がリードしてくれたんだ。とても優しくて、本当に嬉しかった。愛されていると本気で信じたんだ。その時、なぜ違和感に気がつかなかったか。僕みたいな陰湿で口数の少ない男を、愛してくれる女なんか、いる筈は無かったのに!恋は盲目、っていうけれど、僕もご多聞に漏れずってとこだったのさ」
吐き捨てた糸山の顔が、それまでのはにかんだ顔から、苦痛に歪んだ顔へ変わった。
そして口調はかつて僕が知っていたどの時の糸山でもない風に、変化してしまったのだ。
「いいかい、彼はこの本を僕に、譲っても良いといい出したんだよ。それを聞いて、僕は震え上がった。いや、勿論下心を持って訪ねていったんだけどね。ただ……」
譲るにしても、当然条件は出された。それも、
「ある意味予測はできたけど、最も恐ろしい条件だったといえる。彼は、やはり甘くはなかった。それどころか」
と彼は言葉を切った。何かを言いかけて止められるのって、聞いている側はとてもそわそわする。
「爺さん、こんなことを言い出したのさ」
(どうだろう、この本の本質を知る者同士、取引をしないかね。この本の前で契約を交わすのだ)
感情の起伏に乏しいと評判だった彼が、大きく身振り手振りを交えながら語る姿は、普段無口で冴えない人が
「実は名優だった」
ことを知ったときの感動にも似た悦びを僕に与えてくれた。
ここに来た経緯や表のことを僕は、すっかり忘れている。
「脅えたよ、その時は。心底怖くなった。そして、悦びに震えもした。こいつの本質を知る者にとって、それ程魅力的な誘惑の言葉はなかった。こいつの前で誓いを立て、契約を交わした者は、もしその約定を反古したり、契約が履行されなかったりすれば、最悪の結果が待っていると伝えられている。ところが、僕って男は、どこまでもひねくれ者にできているらしく、その最悪の結果がどんな事態なのか、とても知りたくて堪らなかった。仮に僕が負けたとしても!」
一息尽こうと、彼は冷めたコーヒーで喉を潤した。青白い顔に、唇だけがやけに赤々として艶かしい。
「それを今ここで明かしては話も終わってしまうから、もう少し辛抱してくれよ。そう、結末を見たくてしかたがなくなったてのは、君にもわかるだろう。確か、君は大のプロレスファンだったよね。超大物同士の世紀の大決戦だったら、何を置いても見たいだろう?僕は大のハードロックファンなんだけど、久々に復活した名バンドのアライブに、いそいそと出掛けていく気持ち、それを何十倍にもしたようなレベルの感覚だったさ。でもね、そのために、命をかける人種だっている。チケットが手に入らないのなら、死んだ方がましだと、本気で思うことだってあるんだ」
わかる。そのとおりだ。どうしても譲れないものを誰しも持っていると思う。
だけど糸山、僕がプロレスファンだなんて、よく知っていたな。
「彼の出した条件というのが」
糸山は、フーッと大きく息をついた。
僕は固唾を呑んで、彼を見守った。それどころか、続きを催促したんだ。
「その条件って、何だったんだ」
その糸山は、促されてとても嬉しそうな表情を見せた。
「良くぞ聞いてくれた。実は彼は、僕が持ってきた五百万と別に、後二年で、更に七百万用意してくれば、無条件で僕に渡そうというのだ。無茶な話しだと思うだろう?でも、それだけの価値が絶対にあるのは間違いない。いや、一億出そうが、百億出そうが、この本の本当の価値を現した事にはならないのさ。金の問題じゃない」
大きく表情が変わり、さっき以上に凄絶な笑みが浮かんだ。のけぞるほどに。だが、不快感はない。不思議だ。
「僕が二年間の辛抱で、精も根も疲れ果てている、と彼は見ていたはずだ。確かに疲労はピークに達していた。でもね、彼の前で殊更に疲れて見せたのも事実なんだ。なぜかというと、出会った瞬間に僕らの駆け引きは始まっていたんだから」
頷くことすら忘れ、僕は黙って聞いている。
「彼もこれを手に入れた以上、威力を試してみたかったんだ。だったら、その提案を利用しない手はない。そして僕らは、誓約の儀式をやったのさ」
「儀式?」
糸山はニンマリと僕の顔を見た。
「そう、儀式だ。二年後の同じ日、同じ時刻、同じ場所での再会を約束した。僕が持って行った五百万円は、彼の自署捺印による預り証と引き換えに渡した。本当は、儀式を執り行った以上、書類はいらないんだけど、彼は筋金入りのビジネスマンだった。そしてまた、新たな僕の受難の日々が始まったんだが、僕には、必らず本を手に入れられると言う、絶対的な自信が芽生え、毎日が楽しくて仕方無かった。それからの僕は、更に節制を重ねた。勿論、会社に内緒でバイトもしたよ。だって、僕の手取り年収二年分の合計でも、七百万に足りるかどうか、心もとなかったからね」
言葉を失なった僕は、糸山の話を聞き続けた。
「そして二年後、僕の体重は、既に四十キロを割っていた。身長百七十八センチの僕がだぜ。脂肪はおろか、筋肉や骨まで細くなったんじゃないかな。何も食わないでいる日もあった。ひたすら、金を溜めるために、絞れるものは絞り尽くした。ただでさえつき合いが悪かったが、忘年会、歓送迎会の類まで全て欠席する姿に、君たちは奇異の念を抱くと共に呆れる思いもあっただろう。しかし、目的を達成するためには、やむを得なかったんだ」
再び糸山が喉を潤すのを見て、僕もマグカップから、すっかり冷えて苦みだけが増した液体を口の中に流し込んだ。
「ところが、敵さんも中々の喰わせ者でね、なんと、僕に対して妨害工作を仕掛けてきたんだよ」
「妨害って、金が作れなくなるようにかい?」
僕の質問は無意識のものだったが、糸山は、大きく頷き話しを続けた。
「そうだ。卑劣な手段だったよ……」
彼の目線が僕から離れ、遠くにやられた。思い出を噛み締めるように。
「状況が状況なだけに、注意力は相当研ぎ澄ましていたつもりだったんだけど、コロッと引っ掛かった。この件に関しては詳しく語りたくはないんだが、まあストーリーテラーとしては、折角聞いてくれてる君を、感動させる努力をしなければならないから、私情を押し殺して、事実のまま告げるとしよう」
ある晩の彼、仕事と別のコンビニのアルバイトが終わって、フラフラとアパートへ帰る途中だった。
一日に一回、売れ残りの弁当か、お握りを食べるだけの生活をしていた彼は、いつも栄養失調の状態で、それが大して苦にならないほどに体が慣れていたという。
アパート近くの公園脇の路上で、会社帰り風の若い女性が、二人乗りのバイクと接触して転倒する所を目撃した。悲鳴が聞こえたが、ブレーキの音は聞こえなかったようだ。
(当て逃げだ)
咄嗟にそう思った彼は、
「ふらつく足を踏み締めて女性に駆け寄った。すぐに救急車と警察を呼ばなくてはと思ったんだ」
彼は冷血漢だと思っていたけど、存外そうでもないようだ。
バイクの連中が、
(おい、当たちまったぜ、ヤベエぞ!)
(暗いから解りゃしねえ、あ、動いてる。死んじゃいねーよ、さっさと行くぞ)
その会話を聞いた糸山は、本気で逆上したのだという。声が小さい事で有名な彼が、隣の駅まで響きかねない怒鳴り声を張り上げたのだ。
「ヴァッッキャローー!!てな感じだったよ」
僕の耳までキーンと響く。臨場感タップリだ。
「でも、バイクの連中は、既に消えた後で、蹲る女性と僕だけが取り残された」
咄嗟に女性に駆け寄り、声をかけた。
「大丈夫ですか、すぐに警察と救急車を呼びますから、ジッとしてて下さい」
女性が顔を上げた。顔を見て、
「ドキッとしたよ。生まれて初めて。あんな美人、見た事がなかった。僕の乏しい表現力では、いい表せないのが残念な位に」
彼女は激痛を堪えてでもいるように、途切れがちにこういった。
「大丈夫です、ちょっと足を挫いただけですから…」
「その口ぶりがまた清楚で愛らしく、僕はドギマギしながら、何を喋ったらいいのか、どこを見ていいのか解らなかった。
「ひ、ひどい奴らですね、あは、あははは、なんてさ」
とても歩けそうになかったから、肩を貸して家まで送って行くことにした。
「勿論、他意はなかったよ。その時の僕は、女にかまけていられる様な立場じゃなかったから。単に善意から、彼女を家まで送り届けたんだし、済んだら直ぐに帰るつもりだったんだ」
彼女のアパートは、彼の部屋ほどではないが、凡そ美女には不似合いな、こじんまりした場所だった。
「詮索する訳にはいかなかったが、彼女の怪我があまり酷そうだったんで、僕は、彼女の両親に連絡することを勧めたんだ。所が、彼女は、顔色を蒼白にしてそれはできない、っていうんだ」
でも、二、三日は動けそうもないくらいの、ひどい捻挫だったという。
電話をすれば済む事だから、代わりにかけようか、と告げたらしいが、悲しそうに首を横に振るばかりだった。
「僕も途方に暮れたよ。放っといて帰ればそれで済む事なのに、僕は彼女の側から立ち去れなくなってた。恥ずかしい話だが、僕は彼女に恋してしまっていたんだ。一目惚れって奴さ。小学校の時に両親を自殺で亡くし、天涯孤独同然に育った僕は、人間不信だった反面、他人との関わり合いや愛情に、本当は飢えていたんだ。会社に就職したのは、メインは生活のためだったけれど、実をいうと、友達や彼女が欲しかったからでもあった」
これまた意外な一面を垣間見せた糸山、それを諦めたのが、この本と出合ったからだというのか?
「でも、親切にして感謝されたことはなかったからなあ、子供の頃から。親のことで、苛められていることの方が多かったよ。だから、嫌われるのを覚悟の上で、勇気を持って彼女を看病した。といっても湿布を買って来て貼って上げたり、食べ物を買ってあげただけなんだけどね」
僕は、糸山の奥底にある悲しみを孤独を知った。
きっと彼は、両親を早くに亡くし、子供時代は周囲から責めさいなまれて暮らしてきたのだ。
だから、他人を信用できなくなり、遠ざけることで自我を護っている反面、人との交流に飢えていたのではないだろうか。
ただ、方法を知らなかった。幼い頃、それを学ぶ機会に恵まれなかったから。
「実は、若い女の人の素肌に触れたのは、その時が生まれて初めてだった。心臓が飛び出すほどドキドキして、老人との契約や本の事さえも、すっかり忘れちまってたよ。彼女は、僕の親切を受け止めてくれ、ポツリポツリと、家に連絡ができない事情を話し始めたんだ」
彼女の名は、美也子という。
父親が事業に失敗し、家を失った揚げ句、蒸発していた。
しかも、まだ就職後間も無い彼女を市中金融からの多額の借金の、連帯保証人に仕立て上げていたのだ。彼女は、実家に帰った母親と別れ、そのアパートでひっそりと一人暮らしをしていた。
地元の就職先を退職し、都内の小さな会社に再就職したのは、借金取りから逃げるためだった。
「だから、自分の居場所を誰にもいえないんだと。いつなんどき、取り立ての連中がやって来るか知れたものじゃないからね」
か弱い女性の立場では、借金取りは、ストーカー並に恐ろしい対象だろう。
「実際、このアパートの住人にも、頻繁に取り立てが来るけど、無関係の僕でも怖く感じるからね」
聞き始めたのが運の尽きだった。
彼の心は次第に彼女に傾き、溺れて行ったのだ。そしてある日、彼女を見舞った後、帰りかけた彼を、美也子が引き留めたという。
「彼女は泣いた。寂しいと…」
彼の胸も詰まった。
「その日、とうとう僕たちは、夜通し一緒にいることになった。初めて、美也子を…いや、女を抱いた。君は疑うだろうけど、僕はその日まで童貞だった。女を知らなかったんだよ。女性の扱い方なんて、当然解る訳が無い。そんなぎこちない僕を彼女がリードしてくれたんだ。とても優しくて、本当に嬉しかった。愛されていると本気で信じたんだ。その時、なぜ違和感に気がつかなかったか。僕みたいな陰湿で口数の少ない男を、愛してくれる女なんか、いる筈は無かったのに!恋は盲目、っていうけれど、僕もご多聞に漏れずってとこだったのさ」
吐き捨てた糸山の顔が、それまでのはにかんだ顔から、苦痛に歪んだ顔へ変わった。
そして口調はかつて僕が知っていたどの時の糸山でもない風に、変化してしまったのだ。