祖母は、私の長男が生まれる前に亡くなった。
示現流免許皆伝の妻で、早くに夫を亡くしたためか男勝りでもあり、後の比叡山大僧正でさえ遠慮するところがあった人だ。
今考えると、母はその中でよく耐えていた。
一度だけ、そんな母が耐えられなくなって、子どもの私たちの前で大泣きをしたことがある。
その唯一の姿を見せまいと、私を布団の中に連れこんだのは、今倒れたと電話があった叔父である、
すぐにも向かいたいが、今の体調ではいささか危ない。私までまた病院のお世話になる可能性がある、
弟は状況を知っているので、今は呼びかけてもわからぬ状態、いざとなったら再度連絡するということになった。
祖母の祖母はそれなりの方だったらしく、武家言葉を話される方だったらしい。
祖母は母と同じ家の生まれで、父系と母系のつながりは、明治になってからの150年だけでも藤原家「系図みたいだと、先日家系図つくりをした弟がぼやいていた。
祖母にげんこつは何度かもらったが、私には極めて優しかった。
小学前から私にに、酒の味を教えてくれたのも祖母だった。
貧乏屋のくせに寄進だけは相当していたらしく、叡山参りをしても、それなりの席につけたようだ。
名前も風体も、今NHKでやっている、真田丸のとり(草笛光子)にも少し似ていた。
そんな祖母は絶対的存在だったが、唯一伯父は祖母の言うことをそのまま聞くことはしなかった。
伯父は、とにかく万能選手に見えた。
私のケーキ造りなどは、伯父からすれば全くのままごとである。
私の子供部屋も、今住んでいる館も、自分で作った。
電気工事もできたが、法律に違反するということで、電気工事はプロに任せてはいたが。
これは危ない話になるが、本物の刀を持っている数は村一番だったろう。
父が倒れる前も、名刀だぞと自慢していた刀を見せられた。
危ない感覚だろうが、美しいと思った自分がいた。
その伯父には、私が倒れる数日前にも偶然会っている。
足取りはいまいちだったが、羽織袴で散歩していた。
田舎でも、今時羽織袴を常時来ている人はまずいない。
そのおじは兄である父を、「馬鹿真面目で使い物にならない」と言っていたが、この言葉は祖母を怒らせた。
真面目に馬鹿とは何たる事か?!という主張である。
伯父はそのあとは黙っていたが、・・・・・・。
伯父は、若いころの小泉さんに似ていた。
世間で小泉旋風が吹く中、会合であるホテルに泊まった。
冗談スキの叔父は、あいつは俺の甥っ子だよと言って本気にされ、相当丁重なもてなしを受けたらしい。
途中で、冗談だとは言えなくなった雰囲気になったと、笑い話をしてくれたことがある。
考えると、私は相当変な環境に育った。
あの大元帥を、あいつと呼び、憲政史上唯一(形式上では数人目)罷免になった大臣も、かつては田舎道を走っては有権者に声を張り上げていた。
そんな姿を見ている。
大元帥と言えば、かつて私が身元引受人となった友人の結婚式には大元帥からの祝辞があったと、私が住所不定時に泊まっていた別の友人が、驚いた顔で話してくれたこともある。
大元帥にはもう一つ思い出があり、竹下さんの姪の子の家庭教師をしていたころ、その国に大元帥がやってきたことがある、
母実家一党ととほぼ同じ時期に私の監視に来たので、現地社長などはどうも勘違いをしたらしい。
個人観光なのに、工場長を母一行のアテンダントに指名した。
かなりお世話になったらしい。
鬼将軍で知られる工場長だったため、その話は意外だった。
昨日から、おむつをはずしての人間訓練中だ。
今の私は、桃井かおりの驚いた、黄色いハンカチーフじっちゃま状態だ。
まだ、半分人間になれていない。
伯父さんがんばれ。
まだ、逝くなよ。