私は学生時代は、よくぼやき泣いた。
ある時、友人の友人から、そんなに嫌なら死ねばよいと言われた。
また、今でも私の女神的存在の方から、一生一回しかないのだから楽しく生きなくっちゃとも言われた。
それで人生観が変わったわけではない。
が、今でもその言葉、場所、声、雰囲気をしっかり覚えているのだから、やはり重い響きだったのだろう。
私が就職した会社は、私にとっては夢のような会社だった。
昔気質が多い部署に回されたから、殴られたり蹴られたりもしたが。
今だと、多分パワハラだとかなるのだろう。
入社した夏に、新入社員に一般社員と同倍率のボーナスが出た。
それは、公務員勤続30年の親父に並びそうだった。
今でこそ社長がアメリカ人だかどっかの方らしく社内では英語中心に話そうとなりつつあるが、私が入った頃はじっちゃんばっちゃん企業に毛が生えた零細企業にも近かった。
信州や越後人が多かった。
この会社は奇抜でもあった。
小企業ながら、特許は日産やホンダなどとも肩を並べるとも言われていた。
だが、ある先輩に言わせれば巨大企業の1部門・1科程度の売り上げにも及ばず、ある方に言わせれば社長は課長か係長レベルの金しか扱えないらしかった。
が、私には素晴らしい会社だった。
一部には、俺は部長だぞ!みたい人もいたにはいたが、大方は上下関係などは無視できた。
特に海外では、社長・工場長も同級生感覚で接することができた。
海外で生まれ初めて寂しい病を移されしょげていた時には、現地社長が若造の私の肩を叩き、お主も我らの仲間になったな。ハッハッハと笑ってくれた。
その時の笑顔は、未だに忘れない。
がっかりしていた私に、力が湧いてきた。
大きな人がたくさんいた。
紅白歌合戦にも出て、かなり有名になったポップ歌手の親父さんは、私が最初に預けられた方だった。
不幸な事故で一部不自由なところがある方だったが、ゴルフや歌はプロ並みだった。
変な奴を頼まれちまったなあと、その親父は私に聞こえるように言ったが、それはけして嫌みではなく、隠さない本心の言葉だったろう。
この親父の指揮のもと、私は工場で、いや会社でも屈指の課長の下で研修させられた。
その課長は、もともとは会社の基礎部門を受け持つ子会社社長だったが、言葉と中身がきつく、いや頭が切れすぎて嫌われもし、本社系の課長にならされた方だった。
★ついに、この子たちにも質屋へ嫁いでもらわねばならね日が来た。
かなり寂しく、惨め。
追記
相場通り、私の1か月のアルバイト代くらいにはなった。