【記憶】裏の路地;自分の無知識の認識 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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海外生活も5年くらいたった頃、私は大きなショックを味わった。


鉄砲玉として新工場ができるときは先発隊として現地調査に乗り込み、日本人がどうすれば生きられるかを探査するのも主な仕事でもあったから、爆弾が落ちてきたりするところの経験はないが、それほど驚くことはないだろうと思っていた。


今考えると、実に恥ずかしい。

井の中の蛙まるだしである。


ゴルゴ13が最も警戒すべき場所として香港九龍城を挙げていたが、城が健在であった頃は、私も命が惜しいから、ここは自ら行くことはなかった。

知人には、翌朝パンツ一丁だけになって路上に投げ出されていた方もいた。

皆に、すごく運が良かったなあと言われたらしい。

そりゃそうだ。城健在時代は、警察でさえめったの入っていけなかった場所だったから。

今は、ずいぶん治安の良い場所に生まれ変わったらしい。



さて、ここからが本題だ。



バンコクは一時期、アジア最大の歓楽街のあるところだと言われていた。

その中でも、パッポンは世界的に知られた場所。

米軍が、ベトナム戦争に向かう兵士たちのために作った街だ。



隣のタニヤは、日本人にとっては東京の裏通りより安全な地域。

日本人以外は、従業員を除いて外国人がまず入れない治外法権的な安全地域。

一方すぐ隣のパッポンは、現地人タクシーでも行くことを断られることがある危険地帯。

日本のツアーなどで、パッポンと紹介され連れていかれるのは、実はタニヤだという話もある。

今はさておき、その昔は怖いところだった。


タニヤには、極めてやんごとなきが焼き肉をお忍びでたまふ場所もあった。

パッポンは、現地のドライバーが道を間違え震えていたことを思い出す。


パッポンには、行ったことがあるが、もちろん現地人と一緒である。

あちらでは神様の国王から名刺をもらえるほどの相手だったから、年下ではあるがそれなりの人物だったのだろう。

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★以下はパッポンで見たことですが、そのまま文にするとたぶん削除されます。

ですから、以下が何のことかわからない方は、Wikipediaなどの辞書が必要でしょう。



★白黒・白白

これは日本でもある。

ただし、結構な入場料を取られるだろうし、お縄にならないような気遣いも必要だ。

が、パッポンには入場料も席代もない。

だいたい、白黒ショウが、通りからものぞける。

日本では、いや世界でもこれだけオープンなところがあるだろうか。



★花電車

白黒くらいはどこにでもあると思っているから、これは驚かなかった。

なかなか元気なのは、かえって哀れをよんだが。

しかし、特殊な花電車には参った。

日本にも花電車という技術があるのは知っていたし、リアルでは見たことがないが映像ではその技術力の高さに感激したことがある。

が、ここのそれは、だんだん悲しくなってきて見るに忍びなくなった。

日本の技能者は、吹き矢や産卵が得意であったりして、これは楽しめそうだ。


が、ここでは、ラストは剃刀にタコ糸。

最初は驚きのあまり凝視してしまったが、だんだん胸が苦しくなってきた。


悲しい。

あまりにも悲しいではないか。


たぶん、一生取り戻せないケガをした少女もいただろう。


いくら明日の飯を得るためとはいえ、悲しすぎる現実。


ラーメン1杯のために春をひさぐ。

そっちの方が、まだ納得いくものに思えたりもした。



タニヤにはよく通ったし案内もした。

が、夜のパッポンはそれ以外に行ったことがない。



昼のパッポンは、どこにでもある南国の裏通りではある。

それでも、香港島南部の貧民街の小工場の中や、党籍をはく奪された方の家ほどの臭気は感じなかった。あそこは30分で気を失いそうだった。


ふと、劉少奇の最期をイメージした。

ここは、日本のマスコミはまず触れない。


知らないことがいっぱいだ。


また、日本は平和だ。


エマニュエルが勝ったボクサーにしたような、大衆の前でのご褒美。


そういうこともあるのだろう。