【日本人に教えない事実】未成年殺人をして英雄になった男と、その晩年 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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埼玉での事件は、たいへん怒りを覚えるし、なんら罪無く殺された人たちが哀れだと思う。

こうした事件でさえ死刑反対を訴える人は、殺された人のことを考えられる能力があるのだろうか?

たいへん疑問だ。

この事件で、こんなことを思い出した。


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귀국, 부산 정착[편집 ]

1999년 1월 권희로는 부산 의 한 소년원에서 일본 돈으로 5만엔을 기탁했으며, 4월에는 경기도 광주군 (廣州郡)의 나눔의 집에서 살고 있는 정신대 출신 할머니들에게도 5만엔을 기탁했다.[4] 그리고 그는 남은 여생을 불우한 소년과 노인을 위해 아낌없이 바칠 것이다라고 했다.[4] 이후 그는 각종 기탁과 모금 활동에 앞장서기도 했다.

1999년 9월 7일 권희로는 부산으로 돌아왔다. 자신의 이름도 '김희로'에서 본명인 '권희로'로 다시

바꾸었다.[6] 당시 권희로는 대한민국 언론 보도를 통해 일본 내 재일 한국인 차별에 맞선 사람으로 알려져 있었다. 이에 경상대학교 병원은 그에게 평생 무료 진료를 약속하였다.

1999년 11월 그는 《어머니, 미움을 넘어섰어요》라는 제목의 수기를 출간하였다. 여기서 그는 "나 역시 할 말은 많지만, 한·일 양국의 관계에 폐를 끼칠 만한 말은 삼가고 미움을 넘어 용서하고 화해하는 태도를 취하고 싶습니다."라고 밝혔다





★グーグル訳


1999年1月金嬉老事件は、釜山の少年院で日本のお金で5万円を寄託しており、4月には京畿道広州郡(廣州郡)のナヌムの家に住んでいる挺身隊出身の祖母にも5万円を寄託した。[4 ]そして、彼は残りの人生を不遇の少年と老人のために惜しみなく捧げるものであるとした。[4]以来、彼は様々な寄託と募金活動の先頭に立ったりした。

1999年9月7日金嬉老事件は釜山に帰ってきた。自分の名前も「金嬉老」で本名である「金嬉老事件」で再度変えた。[6]当時金嬉老事件は、大韓民国マスコミの報道で、日本国内の在日韓国人差別に対抗した人として知られていた。これ慶尚大学校病院は彼に生涯無料診療を約束した。

1999年11月、彼は "母、憎しみを超えました」というタイトルの手記を出版した。ここで彼は、「私も言うことは多いが、韓日両国の関係に迷惑をかけるだけの言葉は避け、憎しみを超えて許して和解する態度をとってたいと思います。」と明らかにした。




만년[편집 ]

2000년 4월 13일 대한민국 제16대 총선 에는 처음으로 대한민국 국민으로서의 주권을 행사하기도 했다. 그러나 2000년 한 해 동안 그에게는 좋지 못한 일들이 연이어 발생했다.

2000년 4월 26일에는 1979년 옥중 결혼하였으나 1996년경 돈을 챙겨 잠적하였다가 다시 재결합에 성공한 돈모 여인이 또다시 돈을 들고 집을 나가자 돈씨를 수배요청 하였다.[7] 돈씨는 1년 뒤인 2001년 9월 20일 자수하였다.[8]

9월 3일에는 내연 관계에 있던 박모 여인과 남편 안씨가 사는 집에 흉기를 들고 들어와 난동을 부리고 집 안에 불을 지른 혐의로 체포되었다.[9] 이후 권씨는 살인미수와 방화 혐의로 구속되었다[10] 성격장애 판정을 받고 공주보호감호소에 수감되었다. 이후 박씨는 남편과 이혼하고 권희로와 결혼하였으나 오래 가지 못하고 이혼하였다.

2006년경부터는 어렸을 적 일본에 거주한 경험이 있는 70대 이정희와 살았다.

2010년 3월 26일 부산에서 전립선암으로 사망했다. 향년 83세




★グーグル訳

2000年4月13日大韓民国第16代総選挙では、最初に大韓民国国民としての主権を行使した。しかし、2000年の一年間、彼には良くないことが次々と発生した。

2000年4月26日には、1979年の獄中結婚したが、1996年頃にお金を用意して潜伏したが再び再会に成功した豚毛女が再びお金を持って家を出ようお金氏手配を要請した。[7]ドンシは1年後の2001年9月20日刺繍した。[8]

9月3日には、内縁関係にあったパク某女性と夫アンさんが住んでいる家に凶器を持って入ってきて暴動を張って家の中に火をつけた疑いで逮捕された。[9]以降クォンさんは殺人未遂と放火の疑いで拘束された[ 10]が人格障害判定を受けプリンセス保護監護所に収監された。以後、朴氏は、夫と離婚して金嬉老事件と結婚したが、長くは続かず、離婚した。

2006年頃からは子供の頃、日本に居住した経験がある70代・ジョンヒと住んでいた。

2010年3月26日に釜山で前立腺癌で死亡した。享年83歳






★筆者注


この男は、未成年殺人をしたのに、母国では英雄扱いとなり写真集まで発売された。


その本を見る前に、日本人を殺したり強姦したりすると英雄になるという話は聞いてはいたが、全く信じていなかった。


しかし、あの写真集を自分の目で見てからは、少し考えが変わった。



対馬の泥棒でさえ英雄だ。




昔のことを言うなら、対馬住民だまし討ちにし、虐殺したことさえ自慢する。


ベトナムでの軍の複数の事件を見てもわかるように、日本人の感覚では理解できないことがある。





こうした極悪犯人に対してさえ、日本は特定国の特定理由で日本に逃亡してきた者たちには、特別の例外事項を設けて、一般外国人を差別し、特定人を優遇している。


また、最高裁でさえ憲法違反とされていることを、どうどうと破ったりもしているし、地方公共団体もそれを改めない所がある。


が、一部のマスコミや一部の先生方は、これには触れない。



憲法9条を守れと言いつつ、他の憲法や法律、条令は破ってもいいようだ。




不思議な考えの人たちである。