【미군 위안부】사실을 알자・・・事実を知ろう『米兵相手韓国人慰安婦』制度 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

しま爺の平成夜話+野草生活日記

世間を少しばかり斜めから見てしまうしま爺さんの短編小説や随筆集などなど
★写真をクリックすると、解像度アップした画像になります。

미군 위안부(美軍慰安婦)는 주한 미군을 상대로 성매매했던 여성들을 말하며, 위안부, 정신대로도 불렸다.[1][2][3][4] 양공주, 양갈보, 양색시, 유엔마담, 히빠리, 주스걸 등의 멸칭도 있었다.[5][6][7][3][8][9][10][11][12] 미군 위안부 여성들은 한국 매춘부 사회에서 최하층이었으며,[13] 불가촉천민과도 같았다고 전해진다.[14]

명칭[편집]

1990년대 초반까지의 한국사회에서 위안부라는 단어는 일본군 위안부뿐만 아니라 미군 위안부와 한국군 위안부 모두를 지칭하는 말이었고,[29][30] 대한민국 정부에서도 1990년대 초까지 주한미군과 매춘을 하는 여성들에 대한 공식 명칭으로 (군)위안부라는 말을 사용했다.[6][30] 뿐만 아니라, 90년대 초 시, 군 공무원들도 한국 남성과 성매매를 하는 윤락 여성과 구분해 미군 기지촌 여성들을 '위안부'라고 부르고 있었다고 한다.[3] 이들은 다른 말로 애국자, 민간 외교관, 달러를 벌어들이는 애국자, 달러벌이 역군라고도 불리고 있었다.[31][32][33][34][5][35][30][36] 민간에서는 양색시, 양갈보, 양공주, 유엔 마담, 산업의 역군이라는 말로 불렸다.[6][7][5][3] 한국 정부와 미군은 미군 위안부들의 인적사항을 서로 공유하며 이들에 대한 교육까지 해오면서 직접 관리했다.[37][38][39][40][41][42]

인원[편집]

1962년에만 2만 명 이상의 미군 위안부가 65,000명의 미군을 상대하고 있었다.[6] 주한 미군 부대가 밀집했던 동두천시의 경우 성 산업에 종사했던 미군 위안부의 숫자는 1965년과 1980년 사이 최대 2,700여 명에 이르렀으며, 미군을 상대로 한 기지촌 인근 상인들은 3,000여 명을 헤아렸다. 당시 6만 여명이던 동두천시 인구에 비교해 보면 엄청난 수의 시민이 미군의 달러에 생계를 유지하고 있었다는 걸 알 수 있다.[출처 필요] 1980년대까지 100만 명을 넘는 여성이 미군 상대의 매춘 시장을 거쳐 왔다.[6][43]

처우[편집]

한국전쟁 이후 한국의 산업은 완전히 파괴되었으며, 이 무렵 미군 위안부는 궁핍한 삶 속에서 어떻게든 가족을 부양해야 했던 일부 여성들이 선택했던 생계수단이기도 했다[출처 필요]. 1960년대에서 1980년대 기지촌 미군 위안부 상당수는 인신매매되어 온 미성년자들이었다.[30] 인신매매로 끌려온 여성들에게 행해진 인권유린은 무척이나 심각했다. 이러한 인권유린의 단적인 예로 인신매매로 팔려 온 여성 중 한 명이 기지촌을 탈출해 경찰에게 도움을 청했지만, 도움을 요청받은 경찰 당사자 본인이 탈출한 여성을 직접 도로 포주에게 데려간 사건이 있었다. 그리고 이 사건은 특별한 사례가 아니었다.[44] 고향을 떠나 한국에 배치되었던 미군 병사들과 미군 위안부들은 연인으로까지 발전되어 연을 맺고 함께 미국으로 건너가 성공한 삶을 사는 경우도 있었으나, 대부분 미군 위안부들은 단지 미군의 스트레스를 풀기 위한 수단일 뿐이었고 심지어 병사에게 살해당하거나, 자살하는 여성도 여럿 있었다.



以上、ウィキペディアから引用







★日本語訳(グーグル翻訳)


米軍慰安婦(美軍慰安婦)は、在韓米軍を相手に売春していた女性を指し、慰安婦、精神通りも呼ばれた。[1] [2] [3] [4]ヤンゴンジュ、ヤンガルボ、ヤンセク時、国連マダム、ひパリ、ジュースガールなどの蔑称もあった。[5] [6] [7] [3] [8] [9] [10] [11] [12]米軍慰安婦の女性は韓国売春婦社会で最下層であり、[13]不可触えとも同じだったと伝えられている。[14]

名称[編集]

1990年代初頭までの韓国社会で慰安婦という言葉は、日本軍慰安婦だけでなく、米軍慰安婦と韓国軍慰安婦の両方を指す言葉であり、[29] [30]大韓民国政府でも1990年代初めまで在韓米軍と売春をする女性のための公式名称で(群)慰安婦という言葉を使用した。[6] [30]と同様に、90年代の初め時、軍の公務員たちも韓国の男性と売春をする売春女性と区分して、米軍基地村の女性たちを「慰安婦」と呼んでいたという。[3]これらは、他の言葉で愛国者、民間外交官、ドルを稼ぐ愛国者、ドル稼ぎの担い手とも呼ばれていた。[31] [32] [33] [34] [5] [35] [30] [36]民間ではヤンセク時、ヤンガルボ、ヤンゴンジュ、国連マダム、産業の担い手という言葉呼ばれた。[6] [7] [5] [3]韓国政府と米軍は米軍慰安婦の個人情報を互いに共有し、これらのの教育までしてきて直接管理した。[37] [38] [39] [40] [41] [42]

人員[編集]

1962年だけで2万人以上の米軍慰安婦が65,000人の米軍を相手にしていた。[6]、駐韓米軍部隊が密集していた東豆川市の場合性産業に従事していた米軍慰安婦の数は、1965年と1980年の間に最大2,700人余りに達しており、米軍を相手にした基地村近くの商人たちは、3,000人を数えてしまった。当時6万人余りだった東豆川市の人口に比べてみると、膨大な数の市民が米軍のドルに生計を維持していたことを知ることができる。[要出典] 1980年代までに100万人を超える女性が米軍相手の売春市場を経ててきた。[6] [43]

処遇[編集]

韓国戦争以降、韓国の産業は完全に破壊され、この頃、米軍慰安婦は貧しい生活の中で何とか家族を扶養しなければしていた一部の女性が選択した生計手段でもあった[要出典]。 1960年代から1980年代基地村の米軍慰安婦の多くは、人身売買されてきた未成年者であった。[30]人身売買で連れてこられ、女性に行われた人権蹂躙はとても深刻だった。これらの人権蹂躙の端的な例として、人身売買に売られてき女性の一人が基地村を脱出して、警察に助けを求めたが、助けを求められた警察関係者本人が脱出した女性を直接道路花屋に連れて行った事件があった。そして、この事件は、特別な事例ではなかった。[44]故郷を離れて韓国に配置された米軍兵士たちと軍慰安婦は恋人にまで発展して凧を結んで一緒にアメリカに渡って成功した人生を生きる場合もあったが、ほとんどの米軍慰安婦は単に米軍のストレスを解くための手段であるだけであり、さらに兵士に殺されたり、自殺する​​女性も大勢いた。





筆者注;

この米軍用韓国人慰安婦に関しては、韓国大統領のサインがある書面が残る。

また、証言内容は、日本軍の慰安婦と自称しているご婦人方の証言そっくりであることは、はるか昔から知られている。

その年齢を考えると、日本軍の従軍慰安婦と言っている方々の多くは矛盾が多い。

が、この米兵相手慰安婦ならば年齢には矛盾が無くなり、証言内容の変遷も理解できるようになる。


で、大胆な推測をすれば、自称日本軍従軍慰安婦の正体はこうだ。

日本が韓国政府に対して慰安婦にも金を用意したが、その金を韓国がネコババし(これはほぼ100%事実であることが分かっている)慰安婦には分けていなかった。

そのため、そうした日本軍の慰安婦の方々や元朝日新聞記者の義母の詐欺に引っかかった人たち、

人たち、あるいは詐欺をして返済を迫られる人や家族、並びに朝鮮戦争時の米兵相手の慰安婦、さらに朝鮮戦争後にも外貨獲得手段として国が管理した慰安婦など。


こうした人たちが、日本軍による強制連行を叫んでいるのだろう。





私などのようなジジイでなくても、10年くらい前までのあちらに感心がある人なら、国が必至で売春を奨励していたことは常識だ。

いまでも人身売買され海外輸出される売春婦がかなりの数であることは、韓国政府・女性家族部も憂慮している。


ただし、日本の一部マスコミは報道をしない。



韓国政府・女性家族部の発表より、自社の主張が正しいようだ。



もっとも、昨年の光復節の大統領演説の様に、M新聞などは平気で捏造報道をする。


大統領の言葉でさえ作ってしまうのだから、女性家族部の発表など屁とも思わず改変するだろう。


また、そうした報道を信じている日本人もいまだにいたりする。

自分が利用されていることさえ、理解できないのかも知れない。



哀れである。