【推論+蛇足】私の邪馬台国 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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何人かのブロガーさんが邪馬台国について書かれている。

また、来週あたりからは、またマスコミが邪馬台国あたりを掘り返すだろう。


邪馬台国に関してはここでも以前記事にしたことがある。


今回は、私の結論とこじつけ論を紹介したい。


まず邪馬台国の位置であるが、結論は・・・・・




分かりせん。


はい。これが私の結論です。


景初年間の銅鏡100枚が見つかろうとも、それは邪馬台国の証明にはなりません。


なぜなら、ラムセス2世のミイラはフランスにあり、多くの遺跡がルーブルやロンドンにありますが、ここがエジプトではないのと同じ理屈です。

つまり、銅鏡などのお宝は征服者が略奪してしまうだろうからです。



それでもここで終わってしまっては面白くないので、可能性として高い箇所を考えますと2か所に絞られます。


それは、北九州と沖縄です。





簡単な沖縄から説明しましょう。

上のように、ある程度位置が分かっている北九州の奴国、不彌国あたりから南に船で20日行くと投馬国。南へ船で10日、徒歩1か月で邪馬台国と読めます。

北九州から南へ船で20日という鹿児島か奄美。

そこから10日で沖縄本島に着き、ジャングルの中を1か月えっちらこっちら歩いて邪馬台国と言う考えです。

沖縄には海底都市もありますし、南部には巨大な祭祀遺跡もあります。

さらに、大王より霊力ある聞得大君という巫女もいました。

これが卑弥呼の名残だ。

そんな考えです。

あるいは、魏志には福建省の東あたりだろうともあります。

そう考えると、沖縄しか無いようにも思えます。

また、記述されている気候も風俗も、確かに沖縄に似ています。


ただし、魏志に出てくるこうした植生をどう考えるかが問題です。


これは、温帯の植生であり亜熱帯の物ではありません。

かつ当時は、今の温帯域がかなり高温でしたから、一層沖縄の可能性は無くなります。



当時の気候が今より暖かかったならば、これらの植物が沖縄付近に生える可能性はほとんどありません。



さて、もう一つの可能性の北九州。

これは、魏志を別の読み方というか、ある意味非常にわかりやすい読み方ですが、北九州の港からはわずか1000里強(約100Km)程度にあるという考え方です。

どうしてそうなるか言うと、下の文面からです。



郡から女王国まで1万2000里という記載です。

北九州の港までは1万1000里と分かっており、残った1000里が北九州から邪馬台国までの距離となるわけです。

わたしはこの読み方に賛成です。

そうしますと、佐賀・熊本あたりか日向付近までだろうとなるわけです。


入国管事務所である大宰府付近から沖縄では遠過ぎることも、沖縄説には不利です。

また、数万人の人を養える平野が当時沖縄にあったかどうかも、かなり疑問があります。


そう考えて、私は北九州が邪馬台国の可能性が一番高いと考えています。



ところが、主に京大の先生やら一部のマスコミなどは、畿内説を唱えていたりします。

その理由が、魏志倭人伝の写本者が東を南と書きミスしたものだという、根拠はどこにもない説です。

このような誤写を想像して読むと、いくらでも誤写の可能性を見いだせますから、どこにでも邪馬台国を創ることができます。


そこで私も、こんなインチキ邪馬台国を考えてみました。


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邪馬台国壬生説


邪馬台国は、北九州から南ではなく東に20日で投馬国とある。

この投馬国は出雲である。投馬は北方語でtouma^であり、強音でzouma。

これは、i-zumoに類似した音であり、魏の使いには投馬と聞こえたのである。


この出雲から、やはり南ではなく東に10日で京都の福知山か綾部につく。

南ではなく東と言うのは、京大やものすごく信頼できる新聞社などが力説しているから、絶対的事実だろう(笑)。


さて、ここからは陸路で1か月。

奈良や京都では、あまりに近すぎる。

1か月となると、当時の藪山や湿地を考えると1日20km進むのがやっとだろう。

ということで、京都から600km位のところだ。

偉い京大の先生やらものすごく信頼のおける新聞社が言うように、京都から南ではなく東に進路をとり600km。


当時は関東平野はほとんど海か湿地だったので、たどり着けるのは関東北部である。


ここで、卑弥呼が亡くなった後につくった径100歩の円墳があるところを調べてみた。


と、壬生にぴったりの巨な円墳があるではないか。

径100歩と言うと80m位だろうか。

車塚古墳は径82m。掘まで入れると135mという国内最大級の円墳で、こんな北関東の片田舎にあり

ながら、大正時代にはすでに国指定史跡となっている。

かつ、すぐ隣には、やはり大正時代に国指定史跡となったホタテ貝型の牛塚古墳もある。

また、上空から見ると、その他にも前方後円墳などがありそうである。

国指定史跡の前方後円墳である、愛宕塚古墳にも近い。




この円墳から考えて、この壬生こそが邪馬台国である。


なぜなら、明時代に日本は下記のように九州が北で、関東はそれより南に描かれており、北関東は魏志にあるように福建省の東隣となるからである(笑)!!!!







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という説も作れてしまいます。


はい。南を東に読み替えたり円墳を前方後円墳にしてしまったり、1か月を1日ときめつけてしまったりしたら、どんな説でも作れます。



でも、偉い先生やすごく信頼できる新聞社が言うことですから、間違えるはずがない(笑)。


約2000年前に作業者がミスしたことも見えるのです。


まあ、70年の歴史を5000年に延ばしたり、自分たちが支配者ではなかった年月を合算して自国の歴史としたり、2000歳の長寿を全うした王様がいらっしゃることに比べたら、作業者のミスを過去に戻って見ることはたやすいことでしょう。