塩釜神社とは、宮城県の東北東15km位のところにある神社です。
陸奥国一宮(その国を代表する神社=東北一の神社)として、古くから篤い信仰を得ていました。
かつては鹽竃神社という表記をしていますが、現在では塩竈神社または塩釜神社と書くことが多くなっています。
さて、ではなぜ塩釜神社が東北一の神社になったのでしょうか。
実はここには、塩釜神だけではな志波彦神社が同時にあり、1000年以上前の延喜式内神社には、この志波彦神社を名神大社として扱っており、塩釜神社は載っていません。
つまり、塩釜神社は後世の朝廷側がつけたものでしょう。
志(し)とは、アイヌ語で大きいこと。
波(わ)は波そのものかワッカ、つまり水(波)のことかもしれません。
こう考えると、静かな海を祈願したものかもしれません。
また、塩釜を今の言葉で考えると塩作りに使う釜をイメージしますが、それ以外にもこんな発想もできます。
塩=ショッポで、これは方言に残るしょっぱ・い、つまり塩に同じ。
釜=カムイで、こちらは神。あるいは釜=カラでこれは作るというアイヌ語。
そうしますとこれは、塩作りの神を祀ることになります。
古代の海を考えると、志和彦の方が説得力があると感じます。
塩釜は仙台湾内部にあり、波はもともと静かです。
また、リアス式海岸の中にあり潮目も近いことから、もともと漁場として栄えていたはずです。
たまたま塩釜神社前方の海は、座礁を起こさせる島や岩場が少なくなっていたことも幸いしています。
更に、現在の牡鹿半島並びに多くの松島の島々に守られ、東北沖で多発する地震津波による被害は、防波堤となる島々の無い仙台南部から福島・千葉までの海岸線に比べかなり小さいはずです。また、何度も起こるチリ地震津波の影響も、気仙沼や大船渡のように南東に口を開いた港ではないため、あまり影響がありません。
このような漁に適した海・災害が少ないといったの自然環境に限らず、もう一つ重要なことがあります。
それは、この神社のある所から本州に渡って行けることです。
かつ、この奥まった湾のなかで一際高く、海に出た漁師が戻ってくる目印だけではなく、朝廷側が陸奥の国に入る時の目印にもなったはずです。
このようないろいろな思惑があって、塩釜神社を陸奥国一宮とし、古い神である志和彦神社を名神大社としたのでしょう。
★伝説では、朝廷側の先導役(塩土老翁)が製塩技術を伝えたことが由来らしい。
海進時代の塩釜神社(予想図)